至恩之巻
第一帖
岩戸(言答)びらきと申してあるが、天は天の、地は地の、人民は人民の、動植物は動植物の、それぞれの岩戸をひらくのであるから、その立場々々によって違ふところがあるぞ、それを自分のものさしで計って、岩戸ひらきとはこんなものぞと定めてゐると、いよいよ判らん時代となってくるぞ、気つけおくぞ。
――― ここから ――――
一つにおきまして年が替わり平成二十四年でございます。
さて、誠に恐縮ながら皆様が思っておられるよりも、大変な事態となっております。
恐縮ながら、スッカリ騙されてゐる方々もおられると存じます。
どのような状況化に日本・世界が置かれているのか、うれしうれし霊肉御潔斎、うれしうれし御神示を入れた肚に御聞きくださいませ。
かへりみる作業すら怖くて出来ぬ輩もおられると存じます。
どこまで逃げるおつもりでしょうか。
日々うれしうれし御柱を御建て下さいませ。
日々御恩を知り、霊主体従・御五柱・御十柱をうれしうれし御建てくださいませ。
御読みくださりありがとうございました。喜拝
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
『臣民
逃げて眼塞いで、懐手してゐるから苦しむのぞ。我れよしと云ふ悪魔と学が邪魔してゐる事にまだ気付かぬか。(日月の巻 第三十九帖)』
『神の国の元のミタマと外国のミタマとスッカリ取換へられてゐるのにまだ眼覚めんのか。(一八の巻 第八帖)』
――― ここから次の帖 ――――
至恩之巻第五帖
人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。
――― ここから ――――
五、六、七帖と連続してご覧ください。
オノコロの四文字、四音、至恩、シオン。
茲からも地の数四と出(いず)る。
四方と鳴れば八方と拡がる。
(東西南北の四方あるから、八方がある)
次々の広がりから八十、八百(百開くという意もある)、八千、八万、八百万(やほろず:数が多いという意もある)となりなる。
(真中立体は、五、五十、五千・・・と同じイメージ。ゆえに他文献にありますように日本は『ヲス国 スサノヲ 食ヲスの語源は長、治める』ともいふのです)
・四音とありますので御恩の一つも茲に
御恩知らずとは五音、肝心要の真中、神、霊を忘れているという意もございます。
アオウエイ(五の一四、四一)
五の転じ十(三、二)(七、八)
(“表裏を合わせる”と十)
・一六一六な示唆としまして
音。ドレミファソラシ(七)
はにほへといろ(七)
日本は五音。
はにほへ“と”
ここの八尋殿は数霊盤をご覧ください(ナギナミのそれぞれの表裏の回転。心御柱と周辺の“立体のイメージ”。
他補足:神社等の建物とはこれらをイメージ化したものなのです。西洋においての教会等も同じく、聖書にある数等から柱の数、1、3、7、12、メビウスの輪等々。只観念となってはなりません)。
・この帖のまとめとしてまして
四方八方とは“真中五”を中心としております。
物事は表裏であり不二、上下立体。+、−。
(もう一つのイミ。表裏で十六、16、いろ)
16が出ましたからこれもおいて置きます。
ここからも菊、スイレン、蓮華の紋章等とも関係します。
<資料ここから>
西洋では、その太陽に愛される花をロゼット(バラ)と呼んで神聖視し、それは後年のキリスト教に継承されている。
<資料ここまで>
そのような説明を色々示唆した帖でございます。
――― ここから次の帖 ――――
至恩之巻第六帖
四と八によってなされたのであるから、森羅万象の悉くがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、〇でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな。
――― ここから ――――
つまり“一方的”となってしまった。
今の行き詰まりとは平面、人間心(肉中心)であり真中(神、霊)がない為(御恩知らず)でございます。
『御恩を知らず霊(〇、レイ)なく肉中心の平面であるから、順序なく行き詰る。つまり喜びがない』。
肉に囚われたワレヨシ(さらに獣、魔)が蔓延るようになる。
“人”の悪事とはほとんどが“苦しめ殺すことが目的”ではなく“肉、カネ、自己顕示欲”に偏重し、“霊、神”をないがしろにした結果、それを魔、ケモノ等にツケコマレ操られさらには邪悪ともなっております。
(戦争を意図的に起こし殺し騙しをすることが信じられますまい。あなたたちは感覚が麻痺、鈍感になっているのでございます)
ゆえに中心が“悪、偽”でありますので、平面で行き詰るのも道理でしょう。
(一つの意味としまして滅びる肉を中心としますから当然滅びるのでございます)
ゝ霊があり肉があるのにも関わらず、肉のみと頑なに信じ(思い込まされ)錯覚、勘違いするから平面上だけに囚われ、同じ所をいったりきたりする。
(言答、意答等は内にあるのですから成答となりますまい)
問題は“内的問題”であります(所作、口と心と行が一致しておらず支離滅裂。霊肉和合しておらずマコトではない)。
戦争等も人々は騙されているのでございます『悪を殺しても悪が増えるばかり』なのです。
(その心根が悪なのでございますから)
心根は理を知らず肉に傾いた“妄想、観念、錯覚、取違い、勘違い”であります。
ゆえに外にいくら求めても肉とは偽でございますゆえに、真である霊にまずは求めなくては的外れなのでございます。
内に問題があるのです。
最近打ちましたこれも参考になれば幸いと存じます。
つまり外(“四方、八方”とは平面、地、肉のイメージ)のみで“真中がない”数霊盤をご覧ください。
数で申しますと“五(真中、神、霊)”がないといふことでございます(色々な意味がございますが茲から別の“マナイ(霊的)”が出てきます)。
五である真中(神、霊、歓喜)がないから、行き詰まり(心をなくし)“十悪の世”となっている。
つまり本来立体であるはずの世なのに、平面だと信じている(信じさせられている)からこのような歓喜(真)なき世界となっているのです。
ならば大和す(法則、順序、マツリ)ことすらできますまい。順序、法則から外れているから和とならず“悪”といふのでございます。
(これも勘違いなさるな。各々の意見があるとして“マコトから外れ無理に合わすこと”が“和”ではございません(魔の仕組もございます)無理にするならばマコト<真理、二二>が無くなります。ゆえに世に改善がない。まずは土台<十善>があり祓実践等を行い、“真中をおさえ”気附け合って仲良く和すことが“本当の和”なのです)。
ゝこの帖のまとめ
世(四)は平面ではなく立体であるコト(九十)をハラから分かりなさい(霊があり肉がある。そして実践が働きであり〇九十の潔斎をしなさい)。
“不二である”のに、一方的となったから行き詰まり(息、イキつまり)となった。これではイキ(円とならず)ができますまい(ゆえにカイの御用とも云われるのです。鼻詰まりともなりましょう)。
――― ここから次の帖 ――――
至恩之巻第七帖
根本の元の元の元の神は〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ、別天津神五柱と申してあろうがな、五が天であるぞ。五は数であるぞ、転じて十となるなれど、動き栄へるには+と−の神が現われねばならん、これが中を取り持つ二柱の神ぞ。
――― ここから ――――
別天津神五柱から出る数字五。
ニュアンスが難しいのですが“表裏”が合わさる。二十二、二二ゆえに真中。
他帖にありますように○、ゝを入仕組の示唆(同巻十六帖をイロイロご覧あれ)。
“+−”のもう一つは“ナミ(波)”といふ意味がございます。
ゆえに音と鳴り色とナル。
(“その状況”も前後帖をご覧ください)
ゝ+と−(母)が中を取り持つ
五(歓喜、神、霊)を真中とし上下、表裏、霊肉、天地(二二、不二)取り持つ。
これが八尋殿(立体)ゆえに七渦十(成十、鳴十、生十)。
イメージしていただきたい『八が十になる仕組』は八方に“五真中”和し十となる(アヤ、縦横、表裏、天地。『十は火水(ひみづ)、また神の意(「いり豆の花」より)』“数”に囚われてはなりません)。
もう一つの意味は、真中へ“五、ゝ”が収まる仕組(「うず柱」、そとのゝ○・・・・の連なり、曼荼羅を観てくださると分かりやすいと存じます。また上転門従因至果、下転門従果至因も参考に。内的向、外的向き、回転。またT(黄金の巻三十七帖も参照あれ)
もでてきます)。
普字と開(八)き不二となる。
茲でのナルの仕組とは、渦の中心に納まる仕組(神に任せて<とけいり>“我”から離れれば真中へ行く仕組)。
歓喜とは基の“ゝ”に連なっていくのですから我に囚われなければ、うれしうれしとなっていくのは道理でございましょう。歓喜とは基から流れてくるのです、ゆえにうれしうれしとナル)。
神代(世)七代等々は割愛し(別天津神等々数秘がございます)、七という数字は元は地が四、天が三の時からも出(いず)る数字であり(勿論聖書からもでございます。頭のあなの数でもあります。まだ火水はございますが)、この至恩の巻の流れで申しますと、地が“二”となり天が三とイキ合わさり五なる。
(他帖参照あれ)
このゝ○連なりの示唆。
またこのコトはこのように示唆もしております。
下記もあほ(まっさら、赤子心、初心)じゃないと分からせてもらえないのでございます。
“偶然とはない”のです。
いろは(地)でも
いロはニほへ“と”
『七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。(至恩之巻
第十六帖)
』
『七は成り、八は開く(碧玉之巻
五帖)』
七が十となる。
これも置いておきます。
『チ(千、地、智、血)り(光、理)ヌ(▽、▽△、透)
』
いろは“に”
四が二となる。
『地は四であると今迄説かせてあったなれど(扶桑之巻
一帖)』
音(CDE…。ハ長調等々奥の意味がございますが割愛)
はにほへ“と”
『五は数であるぞ、転じて十となるなれど(至恩之巻
第七帖)』
(勿論数霊の縦横五の十等もございます)
四方八方で四八 四十八 いろは数(地、四十八文字)。
一二三祝詞四十七(+−)。
イロハニ“ホ”
“五”(縦横)。
『この火(ほう)この水(ほう)ぞ。この火ばかりと思ふなよ。火と水(ヒトミ)ざぞ。善き火(ホー)に廻してやるぞ、良き水(ホー)の御用も回してやるぞ。(黄金の巻
第二十八帖)』
『ほう』とはそれぞれの縦の御用、横の御用、縦横の御用。他巻にこれと同じ内容がございます(ケ・レ・ホもまた)。
『ホー』は五の示唆、『ヒトミ』は他に瞳、目(二柱も現れる)、火十水。
そして眼球の中心にある黒い部分、光の通路。つまり“真中を示唆”しております。
(示唆帖:黄金の巻
第四十一帖
五五二。“数霊四十一”とは心の御柱の数でもあります)
他もございますが割愛。
これは学ではないのです。
学でわかるなら誰でもわかっていたコトであります。
神からの啓示なのでございます。
下記の関係帖をご覧ください。
『天人が人民に語る時は、人民の中に来て、その人民のもつ言葉で語り文字を使うのであるぞ、自分と自分と語る如くなるのであるぞ、天人同士の文字は数字が多いぞ。夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、勝手放題にまぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言。(星座の巻
第十八帖)』
『上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、偶然と見へるのぢゃ。神からの現われであるから、その手順が判らんから偶然と見へるのぢゃぞ。偶然の真理さとれと申してあろう。これが判れば大安心。立命。(春の巻
第十五帖)』
『偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ(星座之巻
第一帖)』
ゆえに型が必要なのでございます。
ゝこの巻、神示が一貫して説いていることを簡単に
世は霊肉、天地、表裏の不二であり順序(十所)でなっている、ゆえに平面はなく立体である。
一方でもならず中を取り持つ“+−”現れ十万十全とナリナル。
真中(霊、神、歓喜)がなにより肝心要。
順序があり段階がある。
(歓喜にとけいりたいならば順序を守りなさい)
といふことでございます。
神心に適い段階へ上がるために霊肉和し掃除、洗濯第一(肉体も汚れますように、霊も同じくケガレるのです。ゆえに積み積もるのがこの世の道理)。
ゝゆえに掃除洗濯の仕方も茲に(他帖でもしておりますが基本を)
『かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓いを実践せねばならんのであるぞ(ア火ハの巻三帖
四七二)』
*ひとつの意味、五つのはたらき一霊四魂
どのように『かへりみる』のか『はぢる』のか『くゆる』のか『おそる』のかは“土台”がなければ分かりません。
(ワレヨシ土台では神心に適わない。人類の時代価値観等で悪に傾き土台を知らずぐにゃぐにゃでございましょう)
ゆえに、その土台足る(足)や“十善”でございます。
(鏡であり剣である。内的、外的そしてバランスを保つ、ゝ)
そして神示を声を出し読み祝詞を奉り、口心行を一致させる。
(一二三祝詞とは『喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。第十七帖
(三五一)』*ゆえに当方が唱(“十七”)くださいと打っております)
ゝゆえに日々改心改善第一とくどくど申す
ここ(九十九)も基礎の基礎足る重要な根幹でございます。
伝えるものの土台がないならば一体何を伝えようといふのでしょうか。
(ゆえに日々改心改善第一とくどくど申すのでございます。恐縮ながら改心改善が必要といふことは、この世の摂理道理なのでございます。ゆえに日々しなければならないのです)
ゝこれもおいて置いておきます(各御用の意味等)
立体的な考え方とは“直感”でございます(赤子心で真剣に神示をさせていただくならば神からありがたく教えていただける。
事細かく打ちますとこのような事です。
『二人でせよと申してあるのは裏表合せて一つぞ。二人で一人でせねばならん。(黄金の巻第三九帖
五五〇)』
“霊肉和合”、神と人と和してタカアマハラとなってしてくだされよ。これが一つのマアカタの御用。
初めて読んだときに浮き出てきましたが、ハルナの御用にしましてもひとつのイミは場所等ではなく、
(勿論各々にとって榛名、また山等々もございますでしょう)
ハリツケルナ
(ハルナ、レッテル、囚われるな)
といふ意味でございます。
(これも学に囚われていると固定観念が邪魔をし信じられません。なにかと難しく考えてしまう。ゆえにあほじゃないとわからないのです)
過去帖のコトでもございます(こちらをご覧ください)。
イエス様も含め未だに罪を着せられております。
感謝しマコトに奉るといふ意(イ)でございます。
カイの御用は他帖をご覧あれ。
マアカタの御用とはタカアマ(ひとつに天が上という意。またマアタカ。天の鷹。天の型)。
『鳥啼く声す 夢覚ませ
みよアけ渡る ひむかしを・・・』
この世の実状、現状を知り知らせ高天原(タカアマハラ)とするお手伝いをさせていただく御用。
(世の現実を知り知らせください。ブログをご覧ください)
『ハラにマコトの神を入れてくだされよ(マコトの神を真中、霊主体従。ゆえにハラにきけよ)』ということです。
スワ (和す。ス、ワの言霊に対応。またアマテラ“ス”、“ス”メラ。ワとは十。和。ス=和。言霊学等々ございますがこれは下記なのです)
『高天原 和す』
他にもそれぞれの段階に応じて意味がございますが個人的なことになる為、ご了承ください。
ゝよい機会ですのでこれも
前の更新で恐縮ながら示唆いたしましたが、このように“あほ”にならないと分かりません。
(ア火ハ。他の意も込められております)
学も大切でございますが、『神示は学では解けない』とはこのコト(九十)なのでございます。
ひふみ神示は“神からの神示”であり、人間心で作ったのではないのですから、ゆえに理窟ではないとも申すのです。
(理窟ならば、理<リ>が閉じ込められましょう。ならば先<幸>が見えず迷子となってしまう。道理でございましょう)
くどくど打ちますが学に縛られてはわからないのです。
霊的な意味だけではなく、“いろは(地)<物事の順序、基本>”についても合わせてひふみ神示は説いくださっているのでございます。
人類にとって益となる実践を説いている。
机上の空論、絵空事ではない“口心行一致、霊肉伴うマコトの祈り”の神よりの“シメシ”。
(ひふみ神示が“学のみで“空想、観念、妄想等”意味がない”なら当方はさせていただいておりません。二人三脚で御用させていただいております。感謝)
日月神示とは『真中をハラに、地に足をつけた神示』であると云えるでしょう。
日本国、世界国、三千世界での教訓がない“無意味な観念”ならば他の宗教でもいいのでございます。
(今の世は人間心に囚われ“理”から外れておりますからその改善法をくどくど教えてもらっているのでございます。神示とは神からの尊い御叱りであり親からの贈り物なのです)
利巧(利口)に囚われるなさるな。
『学に囚われるな』といふコトでございます。
世を見ればお分かりでしょう。人とは学に溺れ傲慢に陥りやすい、ゆえに慢心取(鳥)違い勘違い、鼻高々となる。
あほになれ。あほになれ。(二回繰り返しました)
赤子心、初心第一。
歴史に習えば排他的になり特別意識を持つ。
理(リ)からはずれ、ワレヨシにトリツカレ十善の逆を行えば、当然心を無くし平気で騙し欺き謀略、姦計をするようになる(これが魔のシクミ)。
つまりマコトなくミチ(理、立体)から外れるのです(これを外道といふ)。
このような平面的慢心をもいさめているのでございます。
(これも打っておきます。特別とは神からの働きであって、人間が選ぶものではないのです。人は動きでございますから“一平”、各々の段階に応じて、結果それが縦の区別となる。ゆえに真中をハラにチキンとおさえておかなければなりません)
よくよく考えていただきたい。
何千年と経ても人間心(平面)でなにができましたでしょうか。
(騙し欺き、戦争、富の独占ゆえに貧困、紛争、大量虐殺等々。肉のみで他の苦しみを快楽とし、天、地球、人々に感謝なくマコトの愛がまるでない)
もちろん物質的には次の段階となりました。
ゆえにこれからは霊的な意味でもバランスをとらないとなりません。
ゝ結び
ひふみ神示を声を出して読み、日々掃除、洗濯(口心行)をし、神を奉る(讃える)ことが肝心要。
霊があり肉がある。人だけの世ではないのです。
それが“一二三”でありひふみ神示なのでございます。
時期が来たので開かせていただきました。
恐縮でございます。
少しでも参考になれば幸いと存じます。
お読みくださりありがとうございました。
――― 関係帖 ――――
松の巻第十四帖(三〇五)
『 裏切る者
沢山出てくるぞ、富士と鳴門の仕組、諏訪(スワ)マアカタの仕組。ハルナ、カイの御用なされよ。』
下(四百)つ巻第二十七帖(六九)
日の出の巻第二三帖(二三六)
日の出の巻第十八帖(二三一)
ア渦(レ)の巻第一帖(三七七)
至恩の巻第十六帖(一一四)
富士の巻第二帖(八二)
アメの巻第十二帖(三四六)
松の巻第二十六帖(三一七)
松の巻第十七帖(三〇八)
水の巻第十七帖(二九一)
水の巻第十四帖(二八八)
アメの巻第十三帖(三四七)
アメの巻第十五帖(三四九)
星座之巻第二帖
五葉之巻第二帖
黄金の巻第九十七帖(六〇八)
黄金の巻第七十七帖(五八八)
ウミの巻第十一帖(五〇三)
『何も判らん無茶苦茶者が、偉ら相な名の神がかりして、何も知らん人民をたぶらかしてゐるが、今に尻尾を出して来るぞ、尻尾つかまらん内に改心して神の道に従って来いよ。』
黄金の巻第八十四帖(五九五)
月光の巻
第二十九帖
『 モト(母答)を正さねばならん、間に合わんことになるぞ。心の改心すれば、どんなおかげでもとらすぞ。』
――― ここから次の帖 ――――
至恩之巻 第九帖
千引岩をとざすに際してナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋を建てると申されたのであるぞ。
これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数(かづ)をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。
――― ここから ――――
はじめに『数霊盤』をご覧ください。
『これが日本の国の、又地上の別名であるぞ』
『ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋を建てると申されたのであるぞ。』
五百(イズモ)
取り違い、勘違いなさるなよ。
念のために打たせていただきますが、下記の巻にはこのようにございますがこれは別のカタのコト(どのようなコトを示唆しているのかお分かりと存じます。また含みもございます)。
『世の元と申すものは火であるぞ水であるぞ。くもでてくにとなったぞ。出雲(いずも)とはこの地(くに)の事ぞ。(日月の巻 第二十八帖)』
下記にございますように神界にも段階があるとございます。
『奥の神界では済みてゐるが、中の神界では今最中ざ。時待てと申してあろが。人民
大変な取違ひしてゐるぞ。(夜明けの巻第十一帖)』
『総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。(碧玉の巻第十帖)』
つまりこのような妙なものだと整理しておいていただきたく存じます。ただピタリと当て嵌まっているのでございます。恐縮ながら分かっておられると存じますがこのような事もコト分けて御覧ください。拝
それでは奥を。
五出(イズモ)ゆえに真中。
出藻(イズモ)。
日出づる国(日意鶴)
五百返しで百出る
百とはもも。
意富加牟豆美神(オホカムツミノカミ)。
(リンク参照あれ)
百とは日、一、天。
また白に九十九に一(はじめ・ヒ)。
またヒフミ・ヒミツ(火水)返しで、
水火。(ここにも奥があります)
瑞穂國(米がよく実るめでたい国)
十四九百ヌ 豊葦原中国。
出藻(イズモ)
『国稚(くにわか)く、浮きし脂の如くして、
海月(水母)なす漂へる時、
葦牙(かしかび)の如く…』
ウマシアシカビヒコジ。
藻は葦、足となる。
ゆえに二本(タツ・日立・ハラ)であり日本。日の百十。真中
天は二一六、地は一四四と申してあろうが、
伊邪那岐三・伊邪那美二
二一六 ÷ 三 = 七二(72)
一四四 ÷ 二 = 七二(72)
マリヤ様とこの帖にありますが、
この72(9)という数字は西洋の数字であります。
西洋盤を見れば一目瞭然です。
お読みくださりありがとうございました。
――― ここから補足 ――――
扶桑之巻第一帖にも同じような内容がありますが、
簡単に打っておきます。
三と二で五ですが。
(三と二の秘数についてさらに平易に打ちますと、
ひふみ四十七音(天)
五十に対して“三”が真中
いろは四十八音(地)
五十に対して“二”が真中
とナルからでございます。 扶桑の“二三”等々詳しく打っております参照あれ)
五 = 四一(真中・ハラ・数霊盤を)
周りは八方。
これは返しで一四(イシ)そして『一霊四魂』。
手は五本でございます。
四指に親指(親神)が和し五となる。示唆
五とは天の数字(心の御柱(しんのみはしら)でございます。
また五・三百六十とは、和って七二。
天(二一六)と地(一四四)が和し三六〇。
これは円。
三六〇もまた九。
九は球でもあります。
三 四で七
一四四 ÷ 四で 三六
三六で九。
和。そしてこの帖は至恩の九帖であります。
――― 関連帖 ――――
日月の巻
第二十八帖 (201)
――― ここから次の帖 ――――
至恩之巻 第十六帖
太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝に(テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)(成答)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘でリンドマリぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍(ぶつ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士(普字)晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ。
――― ここから ――――
ひふみ神示の御経綸とは平面的な理窟・学で分からせていただけるものではございません(潔斎してないものは、『奥山』に行ってないのでございますから、知れるはずがないのでございます)。
当帖は『特別な意味合いを持つ帖』でございますが、一つのイミ的段階におきまして『言霊の大切さ』を未だ知らない人も多いと存じます、ゆえに『用意(「助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか」。つまりハラの掃除・洗濯の準備<潔斎>は整っているか)』と致しまして時節が来ましたので恐縮ながら開かせていただきます。
(いずれ機会がございましたらマコトに開かせていただきたく存じます。光拝)
新年の『一』としてうれしうれし開かせていただきます。拝
『霊肉十善とは我々を守護し、またうれしうれしのマコトの神である』事を何卒御知り下さいませ(我々の調和・繁栄の為に重要であり必要不可欠なのです。“危機感”を持っていただきたい)。
『はじめに(一)』を改めて御読み下さい。光拝
念のために打っておきますが、霊肉十善が仏の教えと云う者がもしいるならば、恐縮ながら『己がメクラ・スコタンだと公言している』のも同じでございます。
霊肉十善とは『理』でございます。
(新しい元の『実践のミチ』なのでございます。光拝)
これの逆を行えば人心が乱れ、省みるコトすら知らず(潔斎せず)、歓喜無く世が霊肉苦しみ滅びるでしょう。
人にとっては必要不可欠な理なのでございます。
(『霊主体従、天地不二、神人合一』のうれしうれし歓喜立体のミチに必要不可欠だと打っています)
この神々をマツルことにより、我々が守護されるのでございます(とても重要なコトです。生き返り、お花畑から御目醒めください)。
大切な神様なのでございます。
何卒マコトにマツリくださいませ(潔斎してくださいと打っております。拝)。
またこの神様方を蔑(ないがし)ろにし、御恩知らずにも落としてきたのですから、霊肉うれしうれしとはならず世が治まらないのでございます。
一つの『イミの開き』としまして、このようにもございます。光拝
『 落ちてゐた神々様、元へお帰りなさらねば
この世は治まらんのであるぞ。一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ。誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。曲って世界を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。其処に幽界出来るのぢゃ。有りてなき世界、有ってならん。(一月三日)黄金の巻 第九十四帖』
我々の調和・繁栄、そして御守護してくださる『霊肉十善の御神様』をうれしうれしマツリくださいませ。光拝
それでは心して御読みくだされば幸いと存じます。
不殺生(ふせっしょう)
の『言』が立つならば、人々霊肉ともに生き物は殺されずに済むでしょう。
つまりこの神様が立つことにより、どれだけ我々が霊肉救われるのでしょうか。 慈愛の守護神であり尊ひ神様なのでございます。
不偸盗(ふちゅうとう)
の『言』が立つならば、霊肉ともに人々から盗む事がなくなるでしょう。
(盗み盗ます行為・行動も起きますまい)
それにより我々が守護されるのでございます。
不邪淫(ふじゃいん)
の『言』が立つならば、“霊肉共に”苦しみの上に立つ性交などはなくなるでしょう(*マインドコントロールされ“勘違い取違いが未だに多い”ので念の為打っておきますが、“男女(夫婦)”の性交・マグワイは“理に則っており”我々の調和・繁栄に必要なコトであり良い事である)。
それにより、『他の苦しみを自己の喜びとする事が魔(どのような心根で興奮などをするのかを観れる=知れる=かへりみれる)』だとも知るのでございます。己のサニワにも意(イ)足る。
不倫(イロの乱れ・当サイトでも開かせていただきました。拝)なども調和・繁栄を霊肉乱すことだと知り『かへりみて、はぢる、くゆる、おそる、さとる』と存じます。
他をよりマコトにうれしうれし愛する事を知ると存じます。
そのような真愛の神様なのでございます。
不妄語(ふもうご)
の『言』が立つことにより、霊肉共に騙し欺きがなくなるでしょう。
それにより他を騙し自己が快楽・カネなどを儲ける事が世の調和・繁栄を乱し破壊する事を『さとる』と存じます。
『口・心・行を一致』させる行にも至ります。
この神様をマツルコトは大切なのでございます。
不綺語(ふきご)
の『言』が立つならば、慾の為に自他惑わすことが、心のサマタゲとなる事を知ると存じます。
己の心の動きを知り、サニワに通じ、口・心・行の一致にも意足ると存じます。
私たちが『惑わされずに済むように』お守りくださる神様なのでございます。
不悪口(ふあっく)
の『言』が立つならば、対象に霊肉において悪口を言う事がケガレに繋がることを知ると存じます。
またそれにより争いが起こるかもしれません。
悪口を言うことが己の潔斎ができていないコトを知るサニワにも繋がると存じます。
人をマコトにほめることにより、調和・繁栄につながることも知ると存じます。
この不悪口も重要なうれしうれしの神様なのでございます。
不両舌(ふりょうぜつ)
の『言』が立つならば、それによる『仲たがいをさせる“心根”』などがなくなるでしょう。
それにより、現在までこれにより害われた調和・繁栄がうれしうれし元に戻るのでございます(戦争、政治などもこの神様の御恩を知らずに罪穢れて争いを起こし起こさせているでしょう)。
また、不両舌を云える(行える)心とはどのような慾に、価値観に従っているのかを知るでしょう(つまりマコトの神に従っているのではなく、『霊主体従でない心根を知るコト』にも繋がる)。
大切な我々を守護してくださる神様なのでございます。光拝
不貪欲(ふとんよく)
の『言』が立つならば、『苦しみの上にたつ慾』がなくなるでしょう。
『カイの御用』をはじめとしまして、霊肉美味しい食べ物・水等が人々にことごとく行き渡ると存じます。
他のイミにおきましても自己中心的(調和・繁栄を乱す)に霊肉貪る慾とはどのような心根なのかも観る事に繋がると存じます。
御恩・和・感謝も知ることに繋がるでしょう(足り知る)。
大変重要な慈悲深い神様なのでございます。光拝
不瞋恚(ふしんに)
の『言』が立つならば、怒り・憎しみ・怨(うら)みなどの憎悪とはどのような影響を及ぼすのかを知り、逆に喜び・労わり、感謝が調和・繁栄に必要不可欠だとも知ると存じます。
また、『なぜ瞋恚(ふしんに)
が起こるのか?』も知ると存じます。
そこから霊肉ともに離れる事によってイキ渡ることも知らせていただけます。
己をさらにうれしうれし弥栄させてくれる神様であるとも云えるでしょう。
不邪見(ふじゃけん)
の『言』が立つならばこのような不善の行(おこない)によって、霊肉調和・繁栄を損なわせ、御恩感謝から遠ざかることを知るでしょう(さとりにつながる)。
霊肉不二であり天地不二、霊主体従だとも知ると存じます。
この神様が霊肉二本和し立つことにより、邪見(己をマコトに監視できる)をしなくなる(日々かへりみる五つの働きが正しく発揮される)のでございます。
また各神様との繋がりがどれだけ大切なコトなのかも得心されるでしょう。
正しくマコトの潔斎をするためにも大変重要な神様なのでございます。光拝
『ヒ』を真中としてこの神様がうれしうれし正しく発揮(立つ)する事(コト)により、『心之御柱も立つ(口・心・行一致和したマコトの神宿る』のでございます。
我々を霊肉うれしうれし御守護くださる大切な神様だといふコトを御恩感謝を持って御知りくださいませ。光拝
さらに国・人に写すことにより霊肉調和・繁栄がまさにナリナルのでざいます(『アホバの巻 第三帖』御参照ください)。
現在は御十柱の尊ひ神様すら知らず、御恩すら知らず裏切り、また霊肉十悪を行っても心すら痛まぬ(心が本来の機能を為してない狂った人外)、スコタンもおられる狂った世でございます。
『ヒ』を真中と治り御り知り、
尊ひ御十柱の神様の御恩に日々感謝して実践してくださいませ(この神様が立つことにより霊肉十悪を起こし起こさす欲求・心根がうれしうれしなくなるのでございます。理窟・学ではなく、例えば『カイ之御用』をマコトに実践すれば不思議と四ツ足がまるで食べたくなくなるのでございます。拝)。
霊肉十善の神様方が我々(われわれ)を御守護くださっているコトを何卒御知りくださいませ。
つまりうれしうれしの『マコトの言』によって守られているのでございます(とてもとても重要なコトを打たせていただいております。これをマコトに知る<ハラに響く>ならば『アイウエオ祝詞等(御一柱一柱の言)』の凄まじい重要性も教えていただけると存じます。『言』とは尊ひ神なのでございます。言葉(コトハ)を何卒大切にしてくださいませ。至恩。拝)。
ひふみ神示を日々うれしうれし拝読(朗誦)ください(学・理窟ではなくうれしうれし御魂が磨かれるのでございます)。
ひとつ、打っておきますが、天国などが「スーパーマンにでもなれる、またなること」だと云っている人(それのみに特化。過去のカルト集団の洗脳事件などで多くが殺され犠牲となり学習したと存じますが)もおりますが、霊肉十善すら知らず守らず、“守れず”かへりみれないスコタンが天国に行けるハズがないでございましょう(このようなコトは科学技術等が発達すれば可能となります)。何の為に各々の『宗教(集団)』に入っているのでしょうか(ハッスル映画などの見すぎでしょう。我々が初心に戻り考えなくてはならないコトは、釈尊、イエス様方がこの世におられたならばどのような行為・行動をなさるでしょうか?神のミコトを伝えるために御実践(潔斎を人々に促がす)をしていると存じます。つまり『潔斎をする事がまずは必要』だからされるのでしょう。『用意』は整っているでしょうか?拝)。
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
御読みくださりありがとうございました。光拝
――― 関連帖 ――――
黒鉄の巻
第十八帖 (636)
――― ここまで ――――
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