黒鉄(クロガネ)の巻
第五帖(六二三)
プラスとマイナスと和合せねばならん。只の和合ではムになつて力出んぞ。今迄の和合のやり方ではならん。喜びの和合。融け合ふ和合。ヽある和
合でないと、少しでも曇りありたら和合でないぞ。こらへこらへてゐるのでは和合でないぞ。今迄の和合の仕方ではカスあるであらうがな。悪の和合であるぞ。神示肚に入れないで御用六ヶ敷いぞ。はじめは目標(メアテ)つくつて進まんと、行つたり来たり同じ道をドウドウめぐりぢゃ。掴める所から掴んで行けよ。拝
んで行けよ。統一した幸福こそ、二二(フジ)晴れの幸福ぞ。(一月二十二日)
――― ここから ――――
黒鉄の巻は『善、悪』についても書かれてあります。
重要な巻であるとともに“基本・初歩”であります。
これがわからないならば話になりません。
・
喜びの和合
喜びとは何でしょうか。
肉の快楽の事だけでしょうか。
喜びとは真(まこと)の神にとけ合うこと。
神とは歓喜でありますから、
歓喜に至るには調和・繁栄しなくてはなりません。
調和・繁栄するにはどうしたらいいでしょうか?
道理を守らなければならないのです。
道理とは神の心(ミコト)の“理”でありますから、
“道”を守ることにより、はじめてマコトに調和し繁栄するのです。
(裏については簡単に。正しい順序があり段階になる。『悪の和合』とは『偽』であるから真の和合とはならないのです。スカ)
真に調和・繁栄するから神の心に適い、真の喜びとなる(うまれる)。
これが『喜びの和合』であります。
――― ここから補足 ――――
・悪について(基本)
悪についてみなさんは『取り違い・勘違い』しています。
(ここの前のエントリーを読んでいただければ現在の世界の状態、“本当の悪”とはなにかがわかります<証明>。ゆえにマコトは理解され難い。ゆえに少ない。この世は魔ケモノ頭になっておりますゆえに)
ここでの“悪”とは外道のことではありません。
外道とは“本当の悪”であり“魔(悪の魔)”であります。
悪とは『肉』のことであります。(また肉から発する欲。“肉のみで存在してる”と囚われ道理のない状態。ゆえに囚われから発するワレヨシ)
善とは『霊』。(神心、道理)
霊と肉を和すとはこのコト(所作一致)であります。
そしてマコトの神(ヽ、歓喜)宿り、ゆえに弥栄する。
ただ八通りに読めます。(順序、段階・表裏裏)
また念のため、“外道”と和すことではないのです。
(神道とは神の道<神の示>なのですから。マコトなくワしても割れるばかり、それでは世転びとなってしまいます)
ゆえに『取り違い・勘違い』は危険で邪魔になるだけなのです。
“理”から外れることは『神の心から外れる<悪>』ことであります。
ならば歓喜がないのでありますから、喜びの和合とはなりますまいて。
(歓喜なきところに喜びはありますまい)
念の為に、マコトの神を真中として和するということ。
ゆえに『今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。』とあります。
この巻がおわかりになれば前の帖もわかるシクミ。
・外道と和すと考えてみよう
ひふみ神示を読んでおられる方ならお分かりでしょうが念の為にコト細かく。
外道と和すということは道を外れ人を苦しめたカネに巻き込まれるということです。つまりマコト中心ではなく、カネ(利欲・肉)中心ということになってしまう。それではひふみ神示でなくてもいい。既存の新興宗教(カルト)となんら変わらない。外道に取り込まれたからこそ今の世となっている。
神示においてもそのような汚い金はいけないことが書いております。『カネはとるなよ』ともあります。ゆえに洗濯、掃除が第一とある。
ウェブでも不満の声を見ましたが神の道にカネをとることがそもそもおかしい。人々が喜ぶことがなりよりの宝。
(ですがカネの御力も必要。メグリあるカネという意でございます。時代・段階のキに合わせる)
まず道から外れたものを道へ戻し、改心させてからマコトの神を中心として和す(善で抱くゝ立体)という意味でございます。
(神の御経綸により御神力等で解らすという意。今のこの頑迷な状況では神の力なくしてはグレンとなりませんでしょう。“分かっていて”人々は神をなきものとし悪いことをしているのですから)
さらにまだまだ順序・段階がございますが少し平易に打たせていただきますと、“歓喜が立体真中”で初めて影は無くなります(所作を整えハラの掃除・洗濯を実践し本来無い地獄がなくなるのです)。
我々にできることは、まずは己の霊と肉の和合(善で悪を抱き参らせる)。
何事も順序(一二三、基本・土台)があり初めて掃除、洗濯第一(実践)と申すのでございます。
おいておきます。
『理(リ)が
(カミ)の御能(オンハタラキ)ぞよく見極めねば間違うぞ。光の生命ぞ。』
(六二一)
『生命はコトぞ。コトはミコトぢや。ミコトは神の心であるぞ。喜びであるぞ。ミコトに生きよと申してあろう。』
(六二二)
――― ここから次の帖 ――――
黒鉄の巻
第十八帖
目さめたら起き上がるのぞ。起き上がらずには居れまいが。神の命ずることは丁度そのやうに人間にうつるのぞ。霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違ひ多いぞ。心せよ。ものに対しては人間そのものが霊であるぞ。人間はこの世の神と申してあらうが。ものは人間の自由自在。偶像は排すべし。十像は拝すべし。悪に行く理(ミチ)はないぞ。理は善のみに通じてゐるぞ。理なきところ進むでないぞ。(一月二十二日)
――― ここから ――――
「偶像」に関する帖でございます。
大変に重要なマコトの実践・マコトの祈りに繋がる内容と存じます。
さて、偶像とは何でございましょうか?
また、当帖におきましても「物質的な形だけの偶像」を意味して仰ってゐるのでございましょうか?
口先ばかりといふのも、これまた「偶像を拝している」といえましょう。
マコトに恐縮ながら、平易に例を挙げさせていただきます。
「翼の生えている像を拝む。」
「翼の生えているイメージを拝む。」
ですが、霊肉十善、御五柱はマコトにうれしうれし拝することはない。
「金、銀などの光り輝いている像を拝む。」
「光り輝いているイメージを拝む。」
ですが、霊肉十善、御五柱はマコトにうれしうれし拝することはない。
「神は素晴らしい」
「神は万能だ」
と口先だけは、人前で云いますが、
霊肉十善、御五柱はマコトにうれしうれし拝することはない。
「仏に信心しましょう!」
「仏は慈悲深く偉大だ」
と口先だけは、人前で云いますが、
霊肉十善、御五柱はマコトにうれしうれし拝することはない。
「これをしてはならぬ」と、古(いにしえ)から仰っておられるのでございます。
偶像を拝すれば、どうなるのでしょうか?
表面づらばかり光り輝くように立派立派(りっぱ)で、内実は盗み騙しが蔓延(はびこ)り目暗まされた、ご恩知らず「いれものつんぼ」の今の世界状態化となるのでございましょう。
過去、お伝えさせていただきましたが、当帖の十像とは「十善(御十柱)」の事でございます。
ドーリでございましょう。
『善言(よごと)は神、なにも上下、下ひっくり返ってゐるから、分らんから、神の心になれば何事も分るから、鏡を掃除して呉れよ。(上つ巻
第三帖)』
『神の民の言葉は神たたえるものと思へ、てんし様たたえるものと思へ、人ほめるものと思へ、それで言霊(ことたま)幸(さき)はふぞ、それが臣民の言葉ぞ。(下つ巻
第五帖)』
『神は言波ぞ、言波とはまことぞ、いぶきぞ、道ぞ、まこととはまつり合はした息吹ぞ、(地つ巻 第三十四帖)』
数、言、音、光。
御親を裏切ってはなりませぬ。
御恩知らずには、なりたくないものでございましょう。
天と地の御恩を忘れずに願います。
御恩を御返しくださいますように宜しくお願い申し上げます。
うれしうれしマコトのを忘れず、真中に御入れくださいませ。
御読みくださりありがとうございました。喜拝
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
関連帖:
夏の巻 第十九帖
月光の巻 第五十四帖
――― ここから次の帖 ――――
黒鉄の巻
第二十一帖(六三九)
身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢや。ものの嬉しさだけではゼロぢや。たまの嬉しさだけでもゼロぢや。よく心得なされよ。死後のみ説く宗教はゼロの宗
教ぢや。迷ふでないぞ。この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢやと申してあらう。神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。
人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理判るであらうが。は三五七ぞ。三のから三五の。三五七の
。(一月二十二日)
――― ここから ――――
『身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。』
ものだけでも不足、たまだけでも不足。
物質偏重でもならず、精神偏重でもならず。
この道は中行くマコトの道。
今の世の実情を考えていただきたい。 物質が満たされたとしても、その裏では多くの苦しんでいる“人たち、生き物”がいるのであります(つまり苦しみを快楽に変換している)。 メグリ(ケガレ)のあるカネ中心である。 これが神示の説く天国でしょうか。
そのような天国を神示はくどくど説いているのでありましょうか。
(よく考えていただきたい。霊的世界は“ある意味物質”ではない。<裏をお考えなさい、この世のカネ、モノはあの世にはもっていけない。“人々、生き物を苦しめたメグリ”のみをもっていく)
肉(ワレヨシ)のみに囚われているならば、霊的に嬉しくなく不足である(霊的には貧しくメグリ、ケガレがあるために苦しみである。<なぜ貧しいのかは上記を参照>ゆえに積み積もるのである)。
『死後のみ説く宗教はゼロの宗
教ぢや。』
これを魔に利用され、今の世はどうなっているのか?
「あの世で幸せになるため」という嘘を教えられ、肉体をおろそかにし、人々を騙しころしたりもしているではないか。
ゆえにゼロの宗教だと書いてある。
なにも生み出さないのである。(喜びを生み出さない。ゆえにゼロなのである。しかもメグリ<悪業>は積む)
これを飽きずに何千年も繰り返してきた。
とても大事なことである“霊のみに傾き、肉をおろそかにしてもならない”。
肉とはカミの入れ物であるから自他共に大切にしないといけない。
(『人間は神への土台ぞ。』)
そして霊、肉のみではならずそこに神(ヽ、歓喜)を入れないとならない。 (なぜならば法則があれば調和、繁栄し常に歓喜、進化し続ける。循環)
霊も肉もウキウキワクワク(歓喜)であることがなによりも大切なのである。
人と神とのうれしうれしの和。
『この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢやと申してあらう。』
真の喜びにとけあうこと、それが天国である。
ゆえにあの世でも天国に行けるのである。
『掃除、洗濯第一』と、くどくど書いてあるのはこの事からである。
またよくよく考えていただきたい。
全体がうれしうれしとなれば、個人がうれしうれしとなるのは道理(“この世のみ”のことではなく)であろう。
ワレヨシ(悪自由等悪平等:他の帖参照あれ)や己だけが楽であること
そのようなことを神示は説いているのではない。
(「己だけが快楽ならば」と思うこと自体、法則<御心>を理解していない証である。それで世がどうなっているのか?全体はつながり合い和し発展、弥栄するのである。それが霊肉ともにマコトのうれしうれしの法則であります)
ゆえに調和、繁栄(全体の大和、つながりである)を乱すものは外道である。
“この世を霊肉ともにうれしうれしの天国としなさい。”ということであります。
“三五七については色々意味がございますが(白銀の巻第三帖(六一四)もご覧ください。)、数霊盤をご覧ください。 “横の線”である三(39)五(41)七(43)の“各中心数等”和すと123となります。 ヒフミとなるのです。
『身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢや。』
この上記の意味(御心)と“順序、段階等”を数霊で示唆しているのでございます(カミは順、法則ぞ)。
――― ここから次の帖 ――――
黒鉄の巻
第二十四帖
悪とはカゲのことであるぞ。斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。影は主人でないぞ。絶対は何と申しても絶対ぞ。相対から神を求めると、相対の神が顕はれるぞ。相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。必ず後戻り、判りはせんぞ。この神示、肚に入ったらグレンと変りて来るぞ。早う肚に入れて下されよ。間に合はん。天の声は内から聞こえて来る。人間の言葉は外から聞こえて来る。霊耳と申すのは内からぞ。耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ。悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。(一月二十二日)
――― ここから ――――
当帖は黒鉄の巻 第二十四帖でございます。
『悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。』
最近は、街中ですら目を疑うほどに悪霊そのものと化してゐるものがおりまする。
人そのものが悪霊と一体化…そのものとなりておられる。
これほどの状態にナリ下がっておりまするが、本人らは、まるで気づいておられない。
ご自分が 悪霊 とは思っていないのでございましょう。
さぞかし特別な存在、選ばれた存在とも 思わされている のでございましょう。
身魂といいましょうか、その段階そのものが それ になり果てておられる。
何故このようなモノが、自信マンマンに跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)してきた のでございましょうか?
皆様、集団(集い)に属するといふことは、自分すら気づかぬ内に様々に染まってしまいます。
ゆえに今の時勢、段階におきましては、うれしうれし霊肉ご実践されてないのならば、関わることは よほど注意をしなければなりませぬ。
巻き込まれるといふことでございます。
このモノらは、表面上は立派な恰好や、なんとも煌びやかな堂々とした建物をつくることでしょう。
大層な言葉を吐き、ハナハダ惑わすでしょう。
これに騙され 知らず知らずのうちに 犯罪の片棒 すら担がされる。
チもますます下がり、鈍く、悪霊とナリ下がるのでございます。
邪霊集団にトラワレ その先、どうなる のかは いふ必要もございませぬでしょう。
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
御読みくださりありがとうございました。喜拝
――― ここから次の帖 ――――
黒鉄の巻 第二十七帖
神は人間の想念の中に入ってゐるのぢゃ。想念が一致するから神の想念が人間に伝はるのぞ。人間の言葉となって人間に現はれる。言は神であるが人間でもあるぞ。自分が自分に語るのであるぞ。この道理、よく心得なされよ。時まちて起き出て下されよ。恨みの霊は中々にとけんぞ。思ひは能(ハタラ)き、実在と申してあらうが、間違ひでも恨まれると、恨みがまとひつくぞ。心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ。判ったと思うたら天狗ぞ。かへりみるとよくなる仕組。(一月二十二日)
――― ここから ――――
様々に重要な帖でございます。拝
『かへりみるとよくなる仕組。』
神示には『かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ。』とございますように、ひふみ神示とは学・理屈ではない実践のミチ、カムナガラでございます。
それでは五つの働きの意味と実践を具体的に打たせていただきます。拝
<ここから辞書より抜粋>
ゝかへりみる
反省する事
ゝはぢる
恥じる事、物の道理を知らず恥ずかしく思う事。
ゝくゆる
古語には「燻ゆる:心が塞いで晴れない」ともございますが
改心する事
ゝおそる
畏れる・こわがる・きづかう・心配する事
ゝさとる
詳しく知る。物の道理を明らかに知る。感づく。認める。
仏教用語では「迷いを去り、真理を体得する」事。
改善する事
<ここまで辞書より抜粋>
それでは具体的な心の内観(実践)といたしまして世を乱している行為・行動について観ていきたいと存じます。
下記を御覧下さい。拝
『神界の乱れ、イロからぢやと申してあらう。男女関係が世の乱れの因であるぞ。お互に魂のやりとりであるぞ。この世ばかりでなく、あの世まで続くのであるから、くどう気つけておくぞ。コトはモノになる。悪いことすれば悪いもの生れて来て、生れ故郷に喰付いて悪くする。(黄金の巻 第八十五帖)』
『キ頂いてよみかへるぞ。出足の港は二二の理(ミチ)からぢやと申してあろう。真理と申してあろう。これが乱れると世が乱れるぞ。神界の乱れイロからぢやと申してあろう。男女の道
正されん限り、世界はちつともよくはならんぞ。今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。和は力ぞ。(春の巻 第二十五帖)』
上記帖にはこのように男女関係の大切さが説かれております。
それでは具体的に男女の道として分かりやすく「不倫をしたらどうなるのか(どのように世の乱れまでにつながるのか)」を例に採りまして簡単にではございますが観ていきたいと存じます。拝
不倫とは婚外交渉等と名称を変えておりますが、夫・妻帯者(結婚しているもの・内縁も含め)、結婚していない者が結婚している者と性的関係に及ぶことであります。
それではなぜいけないのでしょうか。
結論から申しますと、
霊肉の調和・繁栄を乱し壊し害うことにツナガルからでございます。
まず個人について、不倫を行うことによって、それを行っている“本人達の内実が害われます”。
それにより“心の御柱が崩れ(基本的な道徳観<倫理>が崩れさる)”、そこに魔が巣食い霊肉ともに十悪(十善の逆)を起こし起こさせる魔の連鎖にもなりうるのです。
不倫(姦通)によってのツナガリにより日々事件が起こっている事からも実感なされるでしょう。
(乱れは霊肉ともに直接的なものだけではなく、間接的なツナガリを起こし起こさす<メグリ>)
それでは個人から周辺(間接的)に少し広げて観ていきたいと存じます。
不倫(姦通)をしている人たちの御家族にも霊肉ともに悪影響が及ぶのです。
つながりから、それが元で霊肉諍いを起こし起こさせ信頼感も損なわれ家族が不仲ともなるでしょう。
子供がおられるならば、子供心に傷(心的外傷等)を残し、後(霊肉ともに)に禍根を生じさせる事にもつながるのです(子供は初めに関わっている親を信頼・信用しているのです、その元が壊されたら何を信頼・信用すればよいのでしょうか)。
(中絶等にもつながる。ちなみに“日本だけでも”知られてない件数を合わせどれくらいなのでしょうか何万人どころではないのです)
簡単にではございますが、ゆえに霊肉の調和・繁栄、順・和を乱すことにツナガルのでしてはならない(させてはならない)のです。
大人と云われている人たちならば、なおさらなのですが、拝金教(カネを拝まないと生きられないシステム)に毒腐れ善が悪で悪が善ともなりサカサマの心根となりカネ中心で心(マコト)がまるでなくなっているのです、ですから十悪を起こし起こさせる事を何とも思わなくなる人たちも増えるのです(さらに心無い構造をした者が要職に就ける仕組でありましょう)。
不倫も含め十悪をしているのにも関わらず開き直り、ワレヨシの都合よい言い訳をし、周りも巻き込み群れを作り、せっせと災いの根を撒き散らすのでございます。
それでは恐縮ながらカネ中心の心根も加えイロの乱れの範囲をもう少し広げてみましょう。
システムが上記のように厄人すら作る悪循環の構造であり、さらに不倫が当たり前だとする流れ(倫理観の崩壊)、そのつながりが夫・妻帯者含め姦通をより当たり前にさせる(また立場・地位<権力>を悪用し乱交を起こし起こさせ、周りまで悪事をさせようと引き込む)流れともなりうるのです。
たとえば政界・各界(芸能界が分かりやすいでしょうか)はどうでしょうか。
芸能界はルックス的に選ばれた人が多くいます。
(悪事を働く人たちには“そのシステムに利用できる格好の獲物”でしょう。ほっといてもそのように“適した人たち”が知らずに集まってくるのです)
カネ、権力で性欲を満たす流れを作り、それが暴力団等にもツナガリ利用されているのです。
(前の戦争の悪影響もあり悪さをする人たち<日本人だけはなく>にも都合がよい仕組なのです。また心根が社会システムに反映するとも打っています)
ならばカネ、暴力(精神的な暴力も含)、性で支配している悪循環の腐敗構造でございましょう。
カネ・権力で異性を買うならばどのようなツナガリが起き、起こさせどのようなコト(悪事)につかわれるのでしょうか。
(とても重要でございます。これが改まらないならば我々国民・世界市民が苦しみ殺される事にも繋がるのでございます。この三点セットにより世が乱されているのですから)
またカネ等で買われた人は心の作用反作用(また「自己の価値がない」などといふような自虐的な心の流れにも繋がるおそれがある)から、された事を別のケース(状況下)で“同じコト(被害者が加害者になるともよく云われるでしょう)”を引き起こしてしまう可能性もあるのです(ですから気付ける内にひふみ神示を拝読し、祝詞を唱え霊肉うれしうれし禊祓いをなさい)。
つまり基本足る単位、夫婦の乱れ、色の乱れが我々国民にとって害となり我々を苦しめ殺し、得をしている厄人たちを増長・増殖させ、それらを悪事にさらに利用させる流れを作り出すのです。さらに社会構造的問題(欠陥)も含め当事者はその流れ(心の慣性力)に囚われますから改善しなくなる流れ(悪循環・癒着・腐敗)ともなりうるのです。
(逆にカネ・性・暴力に囚われその獣体制を維持する流れを作り出すのでございます。各国の例もお調べくだされば幸いと存じます)
このような事からも、神示の説かれるように“イロの乱れ、男女の道”とは霊肉ともにとても大切だと少しは分かりましたでしょうか。
ゆえに根本の単位である夫婦仲良しとは世の基本なのです。
これが改善される事により霊肉思いやり和し大切にする心根が広がっていくのです。
(ツナガリを観てくだされば、すべては関係し合い霊肉繋がっていると御知りになるでしょう)
現在の我々から奪っている上の者(カネで支配している者)がまずは改心改善しないとならないのです。 それをしなければ(させなければ)我々国民(動植鉱物)が霊肉苦しむことになるのです。
(こやつらが世を乱しているのですから)
といふように、所作を十善に照らし「かへりみる」事により簡単に原因が観得てくるのです。拝
さらに「はぢる」という工程があるから「くゆる」事をさせていただけるのでございます。
そのツナガリから「おそる」コトができるのです。
なぜ?「おそる」のか。
それを行うことによりミチから外れ“調和・繁栄”を乱し、霊肉害う事を“マコトに知る”からです。
ゆえに“しないよう(させないよう)に努める働きとなる”のです。
これらの順序が経て「さとる」に至るのでございます。
禊(みそぎ)祓(ばら)いとは基本であり大切であることが得心されると存じます。拝
禊祓いを日々実践し、うけひ・祝詞等を唱えください。
御読みくださりありがとうございました。拝
――― ここから関係帖 ――――
磐戸(一八十)の巻 第十帖(二四六)
磐戸(一八十)の巻 第十一帖(二四七)
――― ここから次の帖 ――――
黒鉄の巻 第三十一帖
中の自分と外の自分と和せよ。それが改心の第一歩。聞かせてきくならば、実地はカタのカタ位ですむなれど。慾入ると邪気湧く、邪気湧くと邪霊集まるぞ。肉体人に神は直接分らんものぞ。神は能(ハタラ)き、神の働きの影しか判らんものぞ。神の姿、見たと申すのは、神の姿の影を自分の心に描き出したまでであるぞ。心に判つても肉体に判るものでないぞ。肉を魂とせよ。魂を魂の魂と向上させよ。ひらけ来るぞ。何事もとがむでないぞ。とがむ心、天狗ぞ。神の前にへり下り、へり下っても尚過ぎると云ふことないのぢや。人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、無理に引張つたり、教へたりするでないぞ。今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。他を排すでないぞ。(一月二十二日)
――― ここから ――――
『慾入ると邪気湧く、邪気湧くと邪霊集まるぞ。』
当帖も時節的に念のために打たせていただきます。光拝 “慾とは良いコト(必要)”なのでございます。
慾を“うれしうれし浄化せよ”と仰っておられるのでございます。拝
『神の前にへり下り、へり下っても尚過ぎると云ふことないのぢゃ。』
人とは傲慢になりやすく、慢心に陥りやすいコトも御教えくださり、また諌(いさ)めておられるのでございます。
倫理、道徳を実践なさらない人たちは過去からどのような行動を起こしたでしょうか(そのような者に騙され権力を持たせたならばどうナルのかは、我々は痛感して分ったと存じます。こちらも御覧ください)。
さらに現在は邪霊がウヨウヨといふ時節。
(含みも含めまして“邪念が浮かぶように誘導するスコタン”もいる始末なのです)
恐縮ながら、日々己を監視しサニワをして戴きたく存じます。拝
『人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。』
と申しても悪自由といふコトではございません。
なんでも自由といふワケではないのでございます。
茲(ココ)のみを都合良く利用するのがスコタン(ならば『磐戸閉め』ともなりましょう。*このような話は次回更新へ続く予定でございます。拝)。
道理が元にあって“色”とりどりとうれしうれし。
つまりキを真中にしてからといふ前提があっての事でございます。
十悪を行っているのに、尚悪自由とし、それをホッテおけば我々が霊肉排され苦しみ殺されるのでございますから。
ですから心を悪魔に売ったカルト団体蔓延(はびコ)リ、人を苦しめ殺しそれでカネを儲ける始末と成り下がっているめちゃくちゃな世となっているのでございましょう。
このようにハラに基本・基礎足る霊肉十善(調和・繁栄)が治まってないならば、トンでもないコト(事態)となるのでございます(ハラに基本・基礎無いならば、どのような神典、聖書、また書でも同じだとも歴史も含めまして学習し、また実感したと存じます)。
御恩を知っておられるならば日々ただただ感謝感謝であり、神にはへり下(遜)っても、尚へり下り足りない感謝の想い・姿勢(心構え)ともに満ち溢れ、うれしうれし自然とワク(湧き出る)と存じます。拝
かむながらたまちはへませ、いやさかましませ
御読みくださりありがとうございました。光拝
――― ここまで ――――
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