星座之巻
第十四帖
目から泥を洗ひ去ると見へてくるぞ、右の目ばかりではならん、左の目の泥も落せよ。泥のついてゐない人民一人もないぞ、泥落すには水がよいぞ、世の元からの真清(詞)水で洗ひ落し下されよ、世の元の元の元の真清(詞)水結構。
――― ここから ――――
両目に泥が入ったならば、当然両目を洗うでしょう。
“片方だけ”では一方的。といふコトでござます。
この帖での、
右の目とは身(ミギリ、水極)を示唆しているのです。
左の目とは霊(ヒダリ、火垂)を示唆しているのです。
風呂に入り身体をキレイにするように、霊(心)体もキレイにしなさい。
という意でございます。
肉体も日々汚れるように。
霊体も日々穢れる。
この世とはツミ積もるのでございます。
人とは肉体だけではなく、また霊体だけでもない。
霊肉不二(一体)。
ゆえに肉体だけキレイにするだけでは一方的、霊のケガレ祓い実践(“内省も含め、逃げず”五つの働きをキチンと働かせる)が必要。
それには真清水が必要(天津祝詞にもございますが古来より、含みもございますが “水とは”浄化、洗礼を表している)なのでございます。
霊のケガレ祓いの真清水とはひふみ神示、祝詞。
ゆえに、ひふみ神示を声を出し読み、口、心、行を一致させ(実力)ひふみ祝詞等を唱(十七)えください。
といふ帖でございます。
これも再度ここに、
他でも打たせていただきましたが、この点は御注意してください。
ひふみ神示は世の状態(段階)変化によって、各巻が対応しておりますゆえに、ある段階の巻とある段階の巻を一緒にしては何が書いてあるのか読み解けないのでございます。
つまり一二三に対応する巻、三四五に対応する巻、“五六七など”に対応する巻があるのです。
インターネット(ウェブ)がある時代(段階)とインターネットがない時代(段階)では異なるようにです。
また、ある巻とアル巻で使用されている同じ数字でも“意味が異なる”コトがあるのです(数字、シンボル等が開く)。
そして○(マル)と〇(レイ)という区別が在る事もおさえておいてください(注釈:○は肉、用等、〇は霊、ム等)。
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星座之巻
第十六帖
偽(にせ)の愛、偽(にせ)の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現れを見ても見へないのであるぞ、目をとぢ耳にふたしてゐるからぞ、今の人民よ学者よ金持よ、早う考へ方を変へねば間に合わん、心の窓早うひらけよ。
――― ここから ――――
『偽(にせ)の愛、偽(にせ)の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ』
“神を信じてない人民の愛と智”とは“人間とは肉<物質>だけと信じている人たち”です。
(または拝金主義の虜<トリコ>となってゐる人々。本質は↓で締めくくる事ができます)
天地(アメツチ)の順序、中心点を守っていない人たち
これらの人たちが世を乱してゐるのです(ゆえに“善悪すらもわかってない”と神示にもあるのです)。
そして“動物の事”についても繋がりがございますゆえに打たせていただきます。
動物(四ツ足)も含め、心無く彼らが肉のみと信じてゐるから動物にも平気で酷い事ができるのです。
(動物に心が在ると知りつつ苦しめ殺しておられるならば、人も同じ事をされても文句はいいなさるな)
なんたる勝手な偏った考えであり傲慢か。
(四ツ足である犬猫は可愛がるが、牛豚は“苦しめ飼育し”殺してもいいというご都合よろしい心根。牛さん豚さんの目をよくよく御覧なさい<鳥さんも啼いて伝えております。動物もカミカカッテゐるのです>)
ゆえに“このような観点”からも全て繋がっており、心無い事が平気でできる社会なのです。
つまり、ここからも人も動物と同じく消費する物と化しているコトが分かるのです。
下記のような心根が反映されているから今の世があるとも打たせていただいております。
牛豚<鶏>は狭い飼育小屋でストレスを与えられ、そのストレスにより病気にならないように薬を与えられる。
用が済んだら食肉等として処理(“廃棄物”とも名前が変わる)されるのです。
“動物実験”等も含めウェブでお調べください。
さて、現代の人たちはどうでしょうか?
どのような扱いをされておられますか?(途上国も含めてでございます)
(『いろは.』ブログに過去詳しく打たせていただいております)
つまり、このレベルから改めないコトには世はほつこんの改善をしません。
(なぜならば、心、霊のレベルで他を殺し苦しませ快楽に変換して喰らってゐるのでありますから。おのれ等の姿を“鏡に映し”御覧なさい。これこそが獣、悪魔でありましょう)
このようなコトも“できる人”と“できない人”とに分かれるのです。
(また、ここからある国とアル国では霊的段階が異なるコトがわかる。どうしても四ツ足を殺し食べたい国があるのです*操作されるかもしれませんが、腸の長さ等から分かるともいゐます)
“コノヨウナコト”からひふみの食べ方とは、霊的な意味も含めてうれしうれしのひとつの仕組(御用)なのでございます。
どうしても獣性を抑えられず肉を喰らい(暗い)たい人は神に一度献げてからにしてください(この世とは一方的な肉だけの世ではなく、霊があり肉があるアメツチですから苦しみのケガレ等<ケガレは闇をウミ病みに通じる>も喰らうコトにもツナガルのです)。
このように、ひふみ神示とは理窟ではない霊肉三千世界を知り知らし鳴らす神からの尊ひ神示なのです。
つまり神(霊)を信じていないとゐうコト(九十)は、
霊があり肉があるといふ天地(アメツチ)の順序、中心点も守ってはゐない<それを知らない>といふ事。
ゆえに悪であり偽であり己の心にわざわざ地獄を作っている人たちといふことなのです(肉とは滅びるものでございましょう。ゆえに滅び<偽>を中心としてゐるから調和なく苦しみが蔓延り、己の心のままに滅びるのでございます)。
また霊、神を無きものとする、肉のみと信じている平面的な土俵でイクサをするならば、この世は肉のみ(つまりワレヨシに繋がる)と“信じさせている魔の思う壺(ツボ)”でございます。
つまり心無く物質的な力の強いものが快楽を貪るケモノの弱肉強食の土俵でイクサをするのでございますから、喰い喰われの白骨ばかりでありイキ詰まり不毛なのでございます。
さてさて、現在は心無く戦争等で脅し騙し快楽に変換している物質中心のものたちが世を動かしてきたのではないしょうか?(ただ“その背後は繋がっており”カルトなのです)
つまり霊(心)がないと信じるということ(なぜ人は見えない心で感じ涙するのでしょう)は、きゃつらの思惑にノセラレタ不愉快な仲間達だといふことなのです(ある意味善の外道ともなる)。
ゆえに立体(神霊肉)の土俵でイクサ(大和、マコトの愛)をしなさいと神示は説いてゐるのです。
言霊幸栄える日本(ヒノモト)のイクサとはマコト(〇九十)を貫き世(三千世界)に広めるコトなのです。
善きホーを念じ、口、心、行を一致し行為、行動として発現させる。
ならば日本は無敵でございます。
そしてこれこそが唯一の解決法でございます。
世が霊肉ともに改善されうれしうれしと成り鳴りマコトの神国日本とアイ鳴る。
三千世界に響き渡るコトでしょう。
ひとひも早く心の窓を開き、色(十六)を正さないとなりません。
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星座之巻
第二十五帖
歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし。さばき説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分をさばいてゐること、人民に罪なし。手長手伸堅磐常磐(たながたのしかきはときは)に 祝ふ御代なる。生井栄井津長井阿須波比支(いくゐさかゐつながゐあすはいき)たたへましを。底つ岩根千木岩高く瑞(みづ)の御舎(みあらか)。四方の御門五方(みかどいつも)とひらき宇都幣帛(うづみてくら)を。御巫(かむなぎ)の 辞竟(ことお)へまつる生足御国(いくたるみくに)、塩沫(しほなは)の留まる限り皇国弥栄(みくにやさか)ゆ。海原の辺にも沖にも神つまります。天の壁地(くに)の退立(そぎた)つ極み手伸(たの)しき。八十綱(やそつな)を百綱(ももつな)とかけてささし給はむ。
――― ここから ――――
『歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし。』
心(霊)的な段階を上げて『各々の心から地獄を無くしなさい』といふことなのです。
これらも土台(十善がハラに治まることなく)なく都合よく解釈なさるな。
地獄はないのと同じであるが、人々は心に地獄を作っておるから、地獄となる。
裁きもないものであるが、ひとびとの心に地獄があるのであるから裁きとなるである。
まず順序としましてマコトの神を真中(マツリ、“ゝ”し)し、天地(アメツチ)の順序を守り感謝(『ありがとう』等の言霊)し、十善(調和の法)に己の行為、行動を照らし合わせ(五つの働き。弥栄実践等)日々改心改善、各々の心から地獄をなくしてくだされよ。
といふことでございます。
くどくど申しますが、社会、世の構造が十悪を起こし起こさせ(各々の心根に十悪の根をはびこらせ)それを快楽に変換できる構造ゆえに、無い地獄をつくりだしてゐるといふコトでございます。
ゆえにその心の投影のままに歓喜なく騙し殺しがあり苦しみ穢れ病み乱れた世となってゐる。
道理でございましょう。
まずは拝金主義(在る意味のカルトでございます)から脱却しなければ歓喜(神)の世とはなりません。
なぜならば心よりもカネ(ワレヨシ、身慾)が中心なのですから。
天地の和合、順序、位置が違うならば歓喜とはナラナイのです。
(各々自身がまずはカネ中心ではない心根、世を少しでもイメージできるならば次の段階が少し観得て来ると存じます)
現在は拝金カルトの下に騙し殺しが行われ家族身内すら裏切り人々は狂気に走り、人を殺す軍団(殺すことを生業としている獣、地獄の軍隊等)までわざわざ作っております。
こうして拝金教に毒された貧しい人々は騙され、カネのため魂を売り地獄の軍団にぞくぞく入るのでございます(メリカが悪い例)。
このような中心点、順序が分かっておられない人たちは“自分がどれほど神を侮り裏切り“悪い事”をしてきたのか?”といふことを本当に思ってゐないのです。むしろ、騙すことがよいことだとも思っておられる(自分のために他を犠牲にすることを楽しみ、騙し裏切りなどを推奨する始末。自己愛的変質者の特徴、地獄の相すら有してゐる)。
ゆえに人としても外れたケモノに成り下がり“調和を乱す十悪”がワザワザできるのです。
“普通ならば”十悪はしようと思ってもできないのです。
それができるようになる、これこそがカルトでありましょう。
良い機会ですかな。
このように十悪を起こすキャンペーンを助長させるメディアについてもくどくど打たせていただきましょう。
啓蒙、啓発する機能を持つメディア(“言葉の上では”そのように言われております)も拝金布教の広告塔(ニュース等)でございます。
信者は毎日毎日TVを拝みその情報のみを信じる。
そこから出る芸能人等の言葉を鵜呑みとするようになるならば、また新たな新興宗教が誕生することでしょう。
世の実状を御覧なさい(いろは.『はじめにお読みください』を御覧あれ)。
あまりに盲信状態、無知蒙昧でありましょう(ゆえに考えず考えられず白雉化しているのでございます。雰囲気などで騙し、考えることを放棄さすような流れもある始末・・・なんたる暗愚無明か)。
都合の悪いことは低レベルのメンツを守るあまり逃げに逃げる(これこそが本当の逃避なのでございます)。
世に出ている人たち(厄人)を御覧なさい。
悪い意味の三猿(見ざる聞かざる言わざる)でございましょう。
挙句、自らの所業を反省することなく魂を獣、魔に売り、あまつさえ周りさえ巻きこむ始末。
失礼な表現でございますが、初歩的な理(リ)も治めずの泥のついた盲人が泥のついた盲人達をヒキイテどこに行くおつもりか。
よくよく神心から離れてゐる人たちは心していただきたい(世のマツリゴトも道理を治めぬ人たちの人気投票ではないとも打たせていただいております)。
このように道理も知らず、己がなにも知らぬといふことさえも知らず、現在のような拝金主義(カルト)である程度の低い段階では歓喜がないのでございます。
つまり拝金主義というふものが、カネ中心の心無い人のガイコク(幽界を作り出す)のルールであり、それにより縛り無い罪を作り出し裁きを作り地獄を作ってゐるのでございます(またこれも打たせていただきましょう。株式、ローン、利息等の商売も含め聖書においてもしてはならないとされてゐるのです。なぜでしょうか?調和を壊し神心を失わせ惑わし裏切る行為、行動だからでございます。それに関わってきた人たちはほつこんの改心をなさい。ある意味あなた達が世を乱してきたのです)。
様々に既存宗教も巻き込み利用し利用され拝金教(カルト)の手下となっていたのです。
ゆえにカネを中心として動いてゐるのですから、法則に適わない。
ならばマコトであるはずもないでしょう。
シンボルで表現するならば○(マル)であり形骸化しており、ゝ(真中のテン)がないのでございまから、世が改善することはなかったのです<○の真中にゝを入れることで改善し歓喜となると打たせていただいております>。
(*分かっておられると存じますが、カネが悪いわけではない。カネ中心であること<そのシステム>が、天地の順序、位置を乱してきた、ゆえに歓喜がないのです)
マコトならば世が茲まで乱れ苦しんではないでしょう。
つまりシン(神、真、心、芯)がないからフニャフニャ腰であるといふことなのです。
その内実、有様のままに様々に実体化するのです。
(分かりやすく打つならば、心で思うから行動するのでしょう、モノが作り出されるのでしょう)
『戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分をさばいてゐること、人民に罪なし。』
人民に罪はないのですが、上記のように罪をわざわざ作り苦しみを選択しているといふことでございます。
また、現代はいまだに“歓喜を真中としておらず(つまり心無い)”、戒律や裁きがある段階の低い状態なのでございます。
ゆえに地獄がある。
(*天地<アメツチ>の順序、真中の位置<霊主体従>を守りなさい。と打たせていただいてゐる)
心を取り戻しください。
それにはまずマコトの十善を治めください。
身心(霊肉)ともに早く風呂に入りください。
お読みくださりありがとうございました。拝
――― ここまで ――――
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