キの巻
第五帖(二六二)
この神示は心通りにうつるのざぞ、思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになるぞ、心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ、この方クヤム事嫌いぞ。次の世となれば、これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となるのざが、臣民今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ。この神は従ふ者にはおだやかざが、さからふ者には鬼となるのざぞ。三月十日、一二の神。
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『自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、』
すべては神の働きであるのに(物質的意味でも地球、太陽を観れば、人民のものは一つもないことがわかる。もともと産まれたときから人民のものであったものがあるでしょうか。すべては与えてられている<ゆえに神のもの>)、順序なく感謝なく人民は自分がした様に思って、神をなきものにした(何事も自分がしていると勘違いし傲慢になり、ワレヨシ、肉中心となった、順序が乱れるのだから歓喜なく法則に適わない)。
『神を中心としてすべてに感謝<大和>をしなさい。』ということが書いてある。
二)
キはイザナキ、イザナミ。
順序の元、気の気。
イキをすることにより、元気がでる。
(循環、動き、ゆえに円)
キミ(気身)カミ(火水)
ですが二元論的な発想ではない。
拍手も左と右を打つ。合わせ打った後に音がでる。
噛むのも同じく、上下も同じく。
合わせ和した後うまれる。
『臣民今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから』
心の洗濯、掃除に応じてそれぞれに神示はうつる(心は鏡)
。ゆえに基本が大切。
今は感謝なく“十悪”をしているくらいの世であるから、神もほとほと呆れている。
(裏:人民は奪うだけで与える心がまるでない)
海の巻 第十一帖(五〇三) 『キミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。』
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キの巻
第十一帖(二六八)
一二三(ひふみ)とは限りなき神の弥栄であるぞ、一(ひ)は始めなき始であるぞ、ケは終りなき終りであるぞ、神の能(はたらき)が一二三であるぞ、始なく終なく弥栄の中今(なかいま)ぞ。一二三は神の息吹であるぞ、一二三唱えよ、神人共に一二三唱へて岩戸開けるのざぞ、一二三にとけよ、一二三と息せよ、一二三着よ、一二三食(お)せよ、始め一二三あり、一二三は神ぞ、一二三は道ぞ、一二三は祓ひ清めぞ、祓ひ清めとは弥栄ぞ、神の息ぞ、てんし様の息ぞ、臣民の息ぞ、けもの、草木の息ぞ。一であるぞ、二であるぞ、三であるぞ、ケであるぞ、レであるぞ、ホであるぞ、であるぞ、であるぞ。皆の者に一二三唱へさせよ、五柱御働きぞ、八柱十柱
御働きぞ、五十連(いつら)ぞ、意露波(いろは)ぞ、判りたか。三月十四日、ひつ九ノか三。
――― ここから ――――
『喜び(神)にとけいれよ。』ということです。
一二三とはこのように物事(霊肉)の基本(順・ウズ)なのでございます。一二三祝詞を唱えるしかございますまい。
白銀の巻第一帖をお読みください。
(『そなたたちの本尊は八枚十枚の衣着ているのぢや。』
別天津神(ことあまつかみ)やアオウエイ、
また手足、アワ等々ございますが割愛し、
まずはひふみ神示をおよみください。
『ケ、レ、ホ』にも意味がございますが割愛し、
ひふみ祝詞は四十七(十一)で構成されております。
その逆をお考えください。
カイの御用はキの御用。
日の出の巻 第一八帖(二三一)
『神示読めば神示出て来るぞ。神祀り早く済せて呉れよ。』
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キの巻第十二帖
みぐるしき霊(たま)には みぐるしきもの写るぞ、それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ、それで早う洗濯掃除と申してくどう気付けておいたのぞ。神のためしもあるなれど、所々にみせしめしてあるぞ、早う改心して呉れよ、それが天地への孝行であるぞ、てんし様への忠義であるぞ、鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、三回、五回、七回、三十回、五十回、七十回で始めはよいぞ、それで判らぬ様なればお出直しで御座る。三月十五日、ひつぐの神。
――― ここから ――――
20141231に、お伝えさせていただきました帖でございますが、
段階としまして、これを悪用しておられるゆえ失礼致します。
『みぐるしき霊(たま)には
みぐるしきもの写るぞ、それが病の元ぞ、みぐるしき者に、みぐるしきタマあたるぞ、』
もはや信じる信じないといふ問題、信じようが信じまいが、ではございまするが、
邪霊集団には、現在、「人すら操作できる能力」がございます。
絵空事や空想、妄想の類ではございません。
御神示としましては「魔の仕組」と申しましょうか。
残念ではございますが、ここまでのヨの段階、人類の状況となっております。
お気づきの方もおられると存じまするが、「みぐるしき霊(たま)を、マコトの方々にあてることが出来る」のでございます。
では、このようなことが行われますると、周りはマコトの方々をどのように思われるでしょうか?
「みぐるしき者である」とレッテルを貼ることになるのでございます。
つまりは、邪霊集団にとりまして、オノレラに都合の悪い人々を貶め苦しめ辱め排除することが可能となるのでござます。
ゆえに、見分ける鏡を用いくださいませ。
段階としましては、まずはこの鏡をお使いくださり「御神示拝読中」も己をサニワしてくださいませ。
恐縮ながら、理由としましては、このうれしうれしマコトにてハラで見てくださりませぬと、何が何やら分からなくなるからでございます。
この順序にて鏡は御神示ともしてくださいませ。
この件も含めまして、様々にマコトにうつりましょう。
さらに、「五葉の巻 第十四帖」にもございますが、
流行病(はやりやまい)含めまして、人様を「病気のような状態にすることも可能」でございます。
遠隔から対象を病のような状況に模写し、苦しめ殺すことも可能でございます。
周りの人々は病気で亡くなったのだと頑なに思うのでございます。
これにて、何が原因にて起こったのか、前後の思慮なく浅く、ただただ闇雲となり、自然を装い隠ぺいされるのでございます。
こうなりますと、このモノらは、自分らが神や超人にもなったように、チカラを誇示し、人々を騙し惑わしさらに苦しめるように調子に乗りまする。
ゆえに、御十柱御五柱の意味があるのでございます。
このモノらの嘘、見分ける鏡となり化けすらもうできませぬぞ。
さてさて、何も考えずイマダニ邪霊集団に取り込まれている人々もおりまするが、
「人々を苦しめ傷つけ殺しても、教祖やオシエの為ならば許される」という洗脳パターンは、
日本ならず外国におきましても「同じ」でございましょう。
人々を苦しめ傷つけ殺し合いをさせても、何も疑わない大衆。
これは段階からいいまして、今の人類とは低いでしょうか?高いでしょうか?
人様の行いでございましょうか?
なぜこの日本におきまして、皆様方は黙認・加担をしておられるのでしょうか?
ゆえに幼少から子供でも出来る、「見分ける鏡」をマコトにうれしうれし備え、まずは用いることが肝心肝要なのでございます。
ナって「知らぬ」「知らなかった」では済まされませぬから、ここからは“勧告”といいましょうか、“忠告”といいましょうか、いわゆる「警告」でございまするが。
この度は、通常の返報(へんぽう)返しではございませぬ。
魔の仕組含めまして、邪霊集団に関わったモノに対しまして、
苦しめられた方々の多くのうらみなどもございましょう。
さて、このモノらがこれらを自覚して関わってきた悪事、悪業でございます。
どれほどか。
裁きではございませぬが、これ遅し早しはございまするが、必ず千倍万倍にて返りましょう。
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
御読みくださりありがとうございます。喜拝
――― ここから20141231分 ――――
平成二十六年十二月三十一日でございます。
本年もありがとうございました。
当帖を失礼致します。
『鎮魂(ミタマシズメ)には神示読みて聞かせよ、』とございますように、
マコトにうれしうれし読みてくださいませ。
誠に恐縮ながら、見直しも必要でございます。
「祝詞について」も、御読みくださいませ。
マコトに御祈りくださいませ。
旧暦もお忘れなく願いまする。
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
御読みくださりありがとうございました。喜拝
――― ここまで ――――
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