龍音之巻

第四帖

 〇(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。


――― ここから ――――


こちらもよい頃合でしょうか。
この事についても未だに知ったかぶりをし取違い勘違いしておられる人たちがおりますゆえに打たせていただきます。
恐縮ながらある人たちにとっては苦言となると存じますがうれしうれしでお読みください(豚に、猫に、馬になんとやらになりませぬように願います)。

神示にございますように “高い段階”から申せば善も悪も、神界も幽界(ガイコク)もないのでございます。

(『はじめに(一)』ですでに打たせていただいておりますが、ハラでマコトに何度もお読みくだされば幸いと存じます)


世界を観ましても途上国の天恵を奪い、繋がりすら知らず観ようとせずワレヨシ一方的平面的、動物を苦しめ殺し血を流させその死肉を喜んで貪っている段階なのでございます(“戦争もそう”でございましょう。チとは内に絶えず流れ循環しチカラするものなのでございます。外に流せば<流してはなりません>“循環せず”イノチを失ってしまうのです)。

これでは霊肉ともにうれしうれしの段階ではございますまい。

つまり”現在の世界にもそれぞれ段階(それぞれの場)がございますが、まだまだ低い段階にあるのでございます


この世”は高い段階にはまだまだ至ってないのでございます(このような状態で霊肉ともに高い段階と言えますでしょうか?)。


まだマコトの善悪すら知らない(治めてない)のでございますから、とんと取違い勘違いイキ詰まり鼻つまみの繰り返しでございましょう。

アメツチの順を知らず真中を知らず御恩を知らず霊を無きものとし、一方的、平面的だとも打たせていただいております

(さらに御恩を忘れケモノのおもちゃになっておられる 。十善すら守らず神を裏切っている心無き人々の流してゐるワレヨシ情報をまんまと盲信し関連妄想に侵されているコトすら気付いておられない。観たところ集団的な憑き物にも取り付かれておられるご様子。*少し気になる動きがございますので気をつけていただきたく存じます


恐縮ながら判りやすく打たせていただければ『幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。』といふ“無い地獄をわざわざ生み出している低い段階”なのでございます(ここからも“高い段階”だとはいえますまい)。


ゆえにまずは初歩基本足るマコトの十善をハラにしっかり治めください


初心を忘れず傲慢、慢心になりなされるな。



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龍音之巻 第五帖

 幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆(ほとん)どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗つたりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であつてもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によつて実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。


――― ここから ――――


これもよい機会ですので開かせていただきます。多謝

サニワするには、内的御柱が建っていないとなりません。

御柱がないならば“何をモトとして判断すればよいのでしょうか”?

ゆえに秤足るマコトの十善が必要なのでございます。



今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。


マコトの十善をモトに口、心、行を一致させハラに治めください。

人とは魔、ケモノのおもちゃにされる入れ物ではないのでございます。

尊ひ神の入れものでございます。

マコトに立ち帰り神宮(玉串、松心、教会、神社)とおなりくだされば幸いと存じます。



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龍音之巻 第十四帖

 幽界霊も時により正しく善なることを申すなれど、それは只申すだけであるぞ。悪人が口先だけで善を語るようなものであるぞ、よいことを語ったとて直ちに善神と思ってはならん。よい言葉ならば、たとへ悪神が語ってもよいではないかと申すものもあるなれど、それは理屈ぢゃ、甘ければ砂糖でなくサッカリンでもよいではないかと申すことぞ。真の善言真語は、心、言、行、一致であるから直ちに力する、言葉の上のみ同一であっても、心、言、行、が一致しておらぬと力せぬ。偽りの言葉は、落ちついてきけばすぐ判るぞ、同じ「ハイ」と言ふ返事でも、不満をもつ時と喜びの時では違ふであろうがな。われは天照太神なり、などと名乗る霊にロクなものないぞ、大言壮語する人民はマユツバもの。


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よい言葉ならば、たとへ悪神が語ってもよいではないかと申すものもあるなれど、それは理屈ぢゃ、


“よい言葉とは”口、心、行一致した本当のコトバ(祈り)だと伝えておられるのでございます。

口先だけで心、行が伴っていないならばどうなる(感じる)でしょうか?(またさらに惑わす人々も多いゆえにサニワしていただきたく存じます)

マコトなき言葉は“内実なく”平面のカタチだけである(口、心、行一致してない)から“偽”であるのです。


このコトがある意味での“○だけでゝがない”という意味(一三)なのでございます。


にゝを真中に治め、はじめてうれしうれしとなる。

これが霊肉和合したマコトの姿(実力、宮)なのでございます。



この帖でも日々の生活にマコトを取り入れよ。

『真理をモトとし生活せよ芸術せよ(行ぜよ)』とも伝えてくださっているのでございます。

ならば真の善言真語(実力)となる。


言霊とは口、心、行が一致し始めて“言霊”とナリナルのでございます(法則)。



うれしうれしでひふみ神示を声を出しお読みください(御用徳)。

少しでも参考になれば幸いと存じます。


ありがとうございました。拝



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