月光の巻

 こんどは、八のくまではたらん。十のくま、十のかみをうまねばならんぞ。そのほかに、かくれた二つのかみ、二つのくまをうみて、そだてねばならんことになるぞ。


――― ここから ――――


八のくまとはナニを示唆しているのでしょうか。

(他巻と同じような内容帖ですが同じではない)

.

そして“十”にナルには“二”足らない。

各巻の帖を御覧ください。


東(一ケ四)は扶桑(二三)なり<扶桑之巻第一帖>


霊界では光のさす方が北ぢゃ、その他の東西南北は皆南ぢゃ、北が元ぢゃ、北(基田)よくなるぞと申してあろうがな。<五葉之巻二帖>


『救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、その東とは、東西南北の東ではないぞ、このことよく判りて下されよ。今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ<扶桑の巻 第八帖>』



このように“北(基田)と東(一ヶ四)”の意が明らかにされております。


東は扶桑(二三)なり”とは、他帖でも打たせていただきましたが、五<天三、地二>という意(瑞穂にも通じます)。

また東は太陽(オホヒ)が昇る方向(曼荼羅<マンダラ>も東を基準としているものもある)の“イメージ”。つまり示唆。


北とはこのように“キの基、元”であるから北(キ田)なのです。


このように神示には含みが多分にあるのでございます。

(赤子心であほにおなりください)


それでは上記をハラに入れ、打てぬこともございますが三つほど。


数霊盤を御覧ください。

八”とは北東、艮(ウシトラ)の方向。



ゝ八の数霊について

八”は素盞鳴(スサナル)大神にも深い御縁がある数霊でございます(八雲立つ、八重垣等、八坂、弥栄も関係あると云われております)。

各巻にも国常立大神(くにとこたちおほかみ)の身体がこの国(大八州)とあり、北東ウシトラと数霊八との関係が分かるのでございます。



大八州(おほやしま)

本州・四国・九州・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡の八つの島の意で)日本の美称。


または、八州国・八島国(やしまのくに)

日本の国の異称でございます。

<淡路州(淡路国)・大日本豊秋津(本州)・伊予二名州(四国)・隠岐州(隠岐国)・佐渡州(佐渡国)・筑紫州(九州)・壱岐州(壱岐国)・対馬州(対馬国)>



・ここから各巻より


日本人はいくらでも生み出されるが日本の国は出来まいがな、

(中略)

国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ、星座の巻 第四帖)


日本が秘の本の国、艮(宇詞答裸・ウシトラ)のかための国、(ゝ)(ヒ)出づる国、国常立大神がウシトラの扉をあけて出づる国と言うことが判りて来んと、今度の岩戸ひらきは判らんぞ、極めの巻 第四帖)



『 国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、至恩の巻 第十帖)』


ウシトラコンジンの肉体は日本の土ざと知らしてあろう、土に生きよと申してあろう地は血(智)であるぞ、素盞鳴命様であるぞ、その土が生長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ。(星座の巻 第十七帖)』



今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ、ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、(扶桑の巻 第八帖)』



このように意味があるから数霊なのです。

ゆえに開(八)かせていただけるのでございます。



基本でございますが下記資料を御覧ください。



<資料よりここから>

 東・西・南・北は四方というが、さらにその中間を四角(四隅)と称してこれに易の卦(ケ)の乾(ケン)坤(コン)巽(ソン)艮(コン)を配し、北東は丑寅(ウシトラ)とよんで艮の字をあて(中略)南西の未申(ひつじさる)には 坤(中略)それぞれあてる。

<資料よりここまで>



四隅に注目してください(隅とは“クマ”とも読むのです)

北東、艮(ウシトラ)の方角は数霊盤では何でしょうか。


そして鬼門数霊“八”の反対の裏鬼門(今迄このように悪いレッテルを貼ってきた)である坤(ヒツジサル)の数霊はなんでしょうか。


<ここから鬼門等について付言>

未だに考える事を放棄し、洗脳されておられる人たちもおられるゆえに打たせていただきます。

このように鬼門と打てば、恐いとだけ思われることでしょう(キ門、喜門、魂門としていただければよい。魂の元の意味をお調べください)。

我々は魔に都合よい心無い状態に洗脳されてきたのです。

ゆえにこのように打てば抵抗が生じるでしょう。


ですが、考えてみていただきたい。

当方の『いろは.』“ブログをはじめにお読みください”を御覧ください。

既存の神が、“正神”ならばこのような状況にはならないでしょう(また“人々がマトモ”ならば)。

自殺、殺しがある事自体がオソロシイ事であり恐ろしい社会、世なのです。

それを取り巻く環境はどのような地獄なのか想像してごらんなさい。

(生き地獄でございましょう。本来ない地獄をきゃつらは作り出してきたのです)


騙し殺しを快楽に変換してきたシステムなのでございます。

これこそが在り得ない事でございましょう(もはや麻痺して心も感じない人も多いと存じますが)。

(戦争、途上国、飢餓で苦しんでいる国々も御覧なさい。どのような意図で起こしてきたのでしょうか)

つまり常識は非常識が多い(逆さまとなっているのです、ゆえに神示では『サカサマ』を色々示唆している)。

外は嘘ばかりだったのです(マコトなく今迄岩戸閉めされてきたと打っております)。

ゆえに日月神示とは凄いのです。


打てぬこともございますが、“事実は小説より奇(キ)なり”です。

恐縮ながらそろそろ目覚めなさい。

<ここまで付言>


数霊盤では“二”でございます。


それを示唆している。

つまり“ウシトラ”“ヒツジサル”といふことでございます。

ゆえにこのように他帖に書いてあるのです。


ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ。


このように繋がる。

ガッテンしましたでしょうか。



それでは次に。

ウシトラ、ヒツジサル”はシンボルならば北東、南西を指しますゆえに“”。

中間の“四隅(乾巽艮)”のシンボルならば“×となります。

四隅があるならば、まずは四方がある“(東西南北、縦横、経緯)”となるのです。

四方八方はシンボルにすれば“+×”を合わせたシンボルとなる(他巻でこれに関係するシンボルが出てきます)。


古神道等ではこれに奥があるのですが割愛。



次。

この帖にクマがでてきましたので開いておきます。


クマとは熊(くま)と認識されている方もいる御様子。

それでは繋がりを観ていきましょう。


東(一ヶ四)は朝日立ち昇るイメージ(またイシ、シイ、一霊四魂)。

富士(二二)に繋がる“熊”といえば、朝(浅)熊(アサマ)山でございます。

恐縮ながら他でも何度か打たせていただきましたが、どのようなコトかは下記資料を御覧ください。



<引用ここから>

大同元年に(八〇六)に浅間神社は浅間神(あさまのかみ)をまつり、現在の地にうつされました。

アサマとは海洋民族の言葉で「おそろしい」という意味。

長野県の浅間山、三重県の浅熊山など火山の名前に多く、

熊本県の阿蘇山も、アサマが変化したものです。

(中略)

火をふく富士神をおさまるため、湧水の豊富にわきだす地をえらんだといえます(注釈:わくわく。火を鎮める水・火をふく山。火をおさめる水)。

浅間神社の境内には、ゆたかな地下水がわく湧玉池(わくたまいけ)があります。

(中略)

富士山のまわりには、浅間大神(あさまのおおかみ)をまつる浅間神社が次つぎに建てられ、鎮火を祈りました。

(中略)

日本はアジアの東に位置するから「日出る国日本」でした(注釈:日本とは名(ナ)に示されているようにヒ出る国、日の本でありヒノモト、チの中心。 国旗、名前からも示唆されている )。

<引用ここまで>


<引用ここから>

「浅間(せんげん)」は本来はアサマと訓み、古代では火を吹く山をすべてアサマ山と言いました。ですから当時はまだ火を吹いていた富士山も当然アサマ山であったはずです。アサマ神社がセンゲン神社と呼ばれるようになったのは後のことになります。

<引用ここまで>


この浅間は、『浅間(あさま)しい』等々とレッテルを附けられてきました。

くまから昇り、日が出で富士(二二)“アサマ”とナルのでございます(この言葉は覚えておいていただきたい。マアカタの御用の重要なひとつでもあります) 。


また富士には、木花之佐久夜毘賣、役小角等々(豆知識でかぐや姫なども)が関係するのです。



ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ


ならば数霊二(坤)は何に対応した大神でしょうか

また他のイミでは、モト(母答)を正さないとならないのです。


当帖は月光之巻なのでございます。



ゝここから追記

念のために打たせていただきます。

数霊盤を御覧ください

二八はヒツジサルのホーを示します(八二がウシトラのホー)。

下記からも分かるのです。


月の公転周期は古(いにしえ)から28日(27.32日。現在この一般に出ている数を逆さにすると722372という数霊と扶桑も出る>)

二月は通常は28日、閏年では29

28は二番目の完全数。

女性の月経の周期。

二十八宿は月をモトとしている。

<ウィキより引用>

月の通り道にそって28の星座を作り、これを「28宿」と呼び

<引用ここまで>



ウェブにも詳しくは書いておられないが他にも興味深い情報として桂月(けいげつ)または桂魄けいはく)、桂輪けいりんというのがある

陰暦(月を中心とした暦)で八月


・桂

中国の伝説で、月の中にあるという木


桂月 

1)月の別名。月の中にかつらの木があるというの伝説による

2)陰暦八月の別名



だが月が中心ではなく日(日の本)が中心なのである。

(日月、アメツチの順を乱している。これでは“二八を基”にし、神示でいふ『二八基(ジャキ)』である<地つ巻 第十八帖(一五五)>。*詳しくは後日開かせていただくかもしれない)

月は日の日光を浴びて、輝いているのである

つまり日がなければ月は輝かない。

順の初めは国常立大神(国常立神も素盞鳴命も大国主命)なのである(このように理窟や占いではない)。


ゆえに日(当帖では国常立大神様方に御縁のある“八”の数霊)が初めでありウシトラなのである。

日があり月がある


八は友愛数のように仲が良いとみていただければよいと存じる(順があり表裏一体)。



戻りますが、一二十(ヒツキノカミ)でも“二”が月であるように数霊二とは月、水、女性などを表すのでございます(無論、この世では変性女子・男子もございますが)。



豆知識:

七とは創世記で有名な数霊であるが実際は6日と休日の1日である。

完全数の最初の数は六(61+2+3


<引用ここから>

6はそれ自身で完全な数である。これは神が万物を6日で創造されたからではない。それ逆が真実だ。神が万物を6日で創造されたのは、6が完全な数だからである

 同様に、28も月の公転周期を表す完全数として、神に選ばれた数だと考えられていた(いま知られている月の公転周期は27.322日だ)。


ピーター・J・ベントリー 著 『数の宇宙より』

<引用ここまで>



御読みくださりありがとうございました。拝



――― 関係帖 ――――


地つ巻 第十八帖(一五五)

アメの巻 第七帖(三四一)

カゼの巻 第三帖(三五四)

ア火バの巻 第十三帖(四八二)

黄金の巻 第一帖(五一二)

春の巻 第三十六帖(六九三)

扶桑之巻 第二帖

扶桑之巻 第八帖

碧玉之巻第五帖

星座之巻 第四帖

極め之巻 第十八帖

紫金之巻 第六帖

紫金之巻 第十二帖

月光之巻第五十四帖



――― ここから関係資料 ――――


神伊邪那岐の大神は

日の出神と諸共に千五百軍を呼び集へ

浅間《あさま》の海に下り立ちて御身の穢を払ひます


(中略)


浅間山《あさまやま》が噴火して山林田畑を荒し、人家を倒し、桜島《さくらじま》が爆発して数多の人命を毀損し、地震の鯰《なまづ》が躍動して山を海にし、海に山を拵《こしら》へ家を焼き人を殺し、財産を全然《すつかり》掠奪して仕舞つても、人間の作つた法律で浅間山《あさまやま》や地震や桜島《さくらじま》を被告として訴へる処もなし、放り込む刑務所も無し、裁判する事も出来ぬ様なもので到底駄目です。只何事も神様の大御心に任すより仕方がありませぬなア


(中略)


あの声《こゑ》を御聞きなさいませ、刻々《こくこく》と鳴動《めいどう》が【きつく】なります。浅間山《あさまやま》が爆発するのか、高姫山《たかひめやま》が破裂するのか知りませぬが、大変な騒動が始まりかけて居ます。


(中略)


月照彦《つきてるひこ》の神力《しんりき》に照らされ悪魔は忽《たちま》ちに雲を霞《かすみ》と逃げて行く  

後に二人は勇み立ち

月の光を身に浴びて露野を渉り進む




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第七帖

 大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。

 それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日)

 神はうそつきぢゃと人民申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、こらえられるだけこらえてゐるのである。もう、ものばかりでは治まらんことキンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、気の毒が来ぬ前に改心結構。遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理すてて神にほれ参らせよ。よくこの神をだましてくれたぞ、この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。

 区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。霊かかりもやめて下されよ。

 人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。科学を更に浄化弥栄させねばならん。

 空間、時間が霊界にないのではない。その標準が違うから無いと考えてよいのである。

 奥山は奥山と申してあろう。いろいろな団体をつくってもよいが、何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。

 奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。大き一つではあるが別々ぞ。今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、これが判らねばこの度の大神業、判りはせんぞ。


――― ここから ――――


道とは行為、行動(口、心、行)が伴い鳴り成る。

(“実践(三千)”をしているということは、“三つが一致”しているというコトでございます。ゆえにマコトとナル。道とは行くものでございますから“道”なのでございます)

教えはト(十)かねば開きますまい。



世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。


人民に内省がなく、十善(調和、繁栄の基本)逆をしているということでございます。

(想像していただきたい、十善の逆をすればどうなりますでしょうか)

『内省がなく“十悪”を行っている人たち』から選ぶことによりどのようになりますでしょうか。

(道から外れるばかりでありましょう)


ゆえに“台のない人々から”多数決より選び出されるとどうなるのか?


多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。


悪”から選ばれるのですから当然悪人、狂人となるのでございます。

その代表達から政策等が作られるのでありますから、

心ないワレヨシの拝キン政治となるのでございます。

(奥の意味としましては、それを支える構造<利権に群がる人たち>がある)


となれば、心ないのでありますから我々国民(女性、子供たち)が未来に渡り苦しむことになる。

(つまり“苦しみの種”をわざわざ選択している)



ゆえに今の世界(日本)は心(神)無く、このように乱れ荒れているのでございます。

(心とは“真中”にあるから“中心”)



ただ取違いなされぬよう(中行く道です)。

人とは善(霊)と悪(肉)でございますから、

(不二でございますから)

悪を殺すのではなく、善で抱く。


霊と肉との和合、そして神との立体の大和。

神とは歓喜でありますから、ゆえに調和、繁栄するのでございます。

心の二二も晴れるでしょう。


ひふみ神示をよみ、まずは各人掃除、洗濯、改心第一。

お読みくださりありがとうございました。


――― ここまで ――――


・下記に関係帖を載せております

内容は上記とつながっております。

簡単に打っておきます。

選挙というものではなく(勘違いなさるなよ。現在はとりあえず“今の政権では人々を苦しませるばかり”ゆえに“選択”が必要。だがそこが問題解決の根幹ではなく我々の心の有り様がまずは大切ということ。政権が変わっても関わる人たちの心が同じならば、また同じことなのです(政権選択をし、新しい政権になったとします。“現在(このときは過去の政権)の政権にシガミツイテルヤカラ”はその後、新しい政権の維持を邪魔する可能性もあるのです。様々に謀略、悪巧み<変わった事で政治をよりおかしな方向へもっていくならば国民はどう感じるでしょうか>をし、またもとの政権<心ない、利権等中心の政治>に戻そうと企むならば国民不在、神<心>不在であって意味がないということです。これはどちらの政権にもいえる事なのです)。心を中心とした順序、いろは、ひふみが大切)、その前にまず“内実”が大切だということでございます。

そうでないならば問題の根幹から人々の意識を遠ざけ、いつまでも解決には至りません。

それが本質から遠ざかるぞということでございます。


政治にしても何事にしても真ん中、中心が問題。心の問題でございます。


ゆえに土台(人としての基本、基礎)がなにより大切なのでございます。

善い土(地、智)でないと善い種は育て難いのでございます。



悪自由、悪平等について

なんでも自由、平等ではないのです。

一見聞こえのよい、この“言葉”に騙されてはなりません。

自由、平等も“道理”があり自由、平等なのでございます。

道理なくなんでも自由、平等ならば人、生き物を苦しめ暴力となることもある。(間接的な働き<精神的>も暴力である)


世は立体であるのに


人々は肉のみだと勘違いをしておりますが、

霊(神)があり肉体があるのでございます。

そして、すべては関係し合いつながりあって調和、繁栄している。(内、外ともに立体循環し順、段階を経て弥栄)


この事が“世は立体である”ということでございます。

(心を真中の円<イキ>とする)


平面の“肉のみに囚われた道”では、乱れるばかりでございます。

(自分だけがよければよい、本能のみに従えばよいというワレヨシとは調和、順序を乱すゆえに“悪魔のワナ”なのでございます)



じっくりと立体的に全体のチを上げなければならないということでございます。
(ただ状態の変化がある。何事も時節がある)


――― ここから関係帖 ――――


五葉の巻 第

 平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。


五葉の巻 第

 悪自由、悪平等の神が最の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢ、八重は仏教ぢ、今の神道ぢ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第三十三帖

 まことから出たことは誰のねがひも同様。心配せずにドシドシと進めて下されよ。若し行き詰ったら省みよ。行き詰った時は大きくひらける時ぢゃ。ぢゃと申して ひとこころで急ぐでないぞ。急ぐと道が見えなくなってくるぞ。そなたの考へて御座ることは自己中心でないか。われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ。


――― ここから ――――


当帖は月光の巻 第三十三帖でございます。


ぎせいに倒れてはならん。

とございます。


大変に恐縮ながら、

現在は段階が上がっていますゆえ、

この側面につきまして皆様にお伝えをさせていただきます。



この内容が???ならば、今ある各集団にかかわりを持たぬ方が賢明でございます。

どのまどひもよいのでございまするが、「御神無き集団は大変に危険」でございまする。

御神示のいふところ邪霊集団ともなりまするゆえ。



自の側面

他の側面

自、他におけまする集団の側面

を額で見、感じ サニワなさり うれしうれし観ていただきたく存じます。


「他に犠牲を求めてはならん。」といふことでもございます。

この意味するところの感じ入る集団は、

恐縮ながら、うれしうれしなんとか得心してくだされば幸いでございまする。



それらのまどひの方々は、その心根洗って自分でよく見つめくださいませ。

本当の悪とは「善の仮面」かぶって心の中に喰入ってゐるまする。

大変に恐縮ながら、もう狂ひに狂ひ間に合わなくなりまするゆえ失礼致します。


この件は、御神の真意にも繋がる大切な認識でございます。

どの宗教におきましても、マコトうれしうれし掃除洗濯を実践なされば、「例外は無く当たり前の初歩足ること」「備わっている状態」「初歩の初歩」「云わなくとも分かる事」にございます。


ここの認識が異なりますと、取り違い勘違いも甚だしく実は生贄、他に犠牲を求めているバ ケモノの集団ともなりまする。

ただし、盲信者は自分らがジツは生贄、犠牲、屠る対象を求めていることすらすっかり気づきませぬ。

さっぱりと騙されているからでございます。


自分らが、なにか特別な使命、特別な存在、特別な集団とも固く強く激しく想っておりまするゆえ、始末に悪い。

残念ながら、多くからいただいたカネのチカラも持っておりまする。


サマザマナ、このオシエなるものは歴史と同化すらもしてしまい、

それが当たり前ともなってしまひ、

一部の狂信者、盲信者は幼少より当たり前の常識としても洗脳教育をされておりますゆえ、

風習や慣習、生活の一部ともなり、

恐縮ながら、

まったくこの意味するところ、

つまりは、御神の御言(光)を感じ、見、理解することすら出来ないでしょう。


さらには、そのシンコウ、その教えそのものに固着をなさり、御神から実は離れ、その真意、コトバすら感じることができず 観れず 考えられませぬ とは、もはや知る事も無い状態でもございましょう。




動物や人などを犠牲、生贄にし、

または罪を着せ、

その代償に、自分たちの生活が良くなる。

病気が治る。

自分たちが助かる。

自分たちが加護を得、救われる。


と、ひらすらに妄想に囚われ生贄、犠牲を捧げる行為・行動を行う集団がおりまする。


この一見して邪霊集団と分かるまどひと、

貴方がたが依存する対象を求めるソレとは、ソノ心根を突き詰めますると、

「生贄、犠牲を求めること」と結果、近似、同義でございましょう。


自分の罪を贖ってくれる。

自分たちの罪を償ってくれる。

自分の為に、何かをしてくれる。

自分たちの為に何かをしてくれる。

とは、代償、生贄、犠牲、依存を求めるココロネと同義ではございませぬか?


恐縮ながら、これは本当の宗教でございましょうか?

御神がそれを望み、貴方がたに求めたのでございましょうか?


誠に恐縮ながら、御伝えをさせていただきます。

これは犠牲などを他に求める発想である行為、行動ではございませぬか?

すべて御神の真意すら曲解した妄想ではございませぬか?


相手や対象をハリツケ、クギヅケにする行為・行動ではございませぬか?

この問ひは、間違っているとシガミツクならば閉口。


これにつきましても、関わってきた己らをひたすら善と信じ、

ひたすらに疑わない者達は、

よくよく改めていただければ幸いでございますが、

恐縮ながら、無理とも存じております。


犠牲を求め、理由をつけ屠り、神、神、神が償ってくれた などとカンキして叫ぶ 失礼ながら狂気のヤカラでございましょう。

その結果、どうなりましたでしょうか?

何を今まで行ってきたのでございましょうか?


求めど、求めど、犠牲に涙し、白骨ばかりのキョウキでございましょうに。

ゆえに、今どうなっておりましょうか?

世の裏では何千年と何が過去から行われてきたのでしょうか?

今のミ、相から、過去の所業が観えるのでございます。

大変に恐縮ながら、その連なり、関係からすでに結果が出ているのでございます。


貴方がたが、読んでおられるものとは、信じておられる歴史とはどのような結末からものを残してきたのでしょうか?

マコトにうれしうれしサニワして御読みくだされば幸いに存じまする。




御五柱、御十柱すらうれしうれし立てず、

己らの行為・行動をかへりみず、はぢず、くゆることなく、おそることなく、

心根に求めず、

他が悪い、他は悪魔などという発想に逃げ込むのでございます。

己らの解釈そのものが、絶対であるとし、

取り違い勘違いをし間違っていたと 改心、改善するといふ(ハタラキ)には至らないのでございます。

おのおのの身慾、権威なども邪魔をするのでございましょう。



我々がマコトにすることを御神は望んでおられます。

よくよく繰り返しまするが「御神に己を捧げよ。」とは、

御神に生贄などを捧げるという意味では無論、ございませんことは、

よくよく皆様、得心されておられると存じます。


対象を苦しめ痛めつけ、血の滴るもの、火で焼いたもの、釘でハリツケたものを御神が所望なされるとお思いか?

ケモノ頭の取り違い、勘違いも甚だしい。

そこに、

その発想に、

その行為・行動に、

疑問すら持たぬ、思考停止の状態にすら疑問すら抱かぬ。


恐縮ながら、知らぬことすら知らないのでございます。




誠、誠に恐縮ながら「これらを行ってきたものと 実は似た心根」だと御知りくだされば幸いに存じまする。

段階が上がり、カギを得、御光当たり、皆様方は知っておられるのでございますから、

何事もマコトにうれしうれしサニワなさり、そしてマコトに無理なく開いていただきたく存じます。



大変に恐縮ながらイマダニ騙されていることにすら、気づけぬものも多くおられましょう。

周りを巻き込み、オシエに涙し、感動感激すらする始末でございましょう。


善と思えど、それは善に非ずでございます。

善に巧妙に隠れた生贄犠牲を強要する連なりであり、スコタンどもがニンマリとほくそ笑むだけでございましょう。




他、他人、他者ではありませぬ。

よくよく段階が上がっているのでございますゆえ、

そろそろマコトにうれしうれし己に、御言、歓喜真中向き合いくださいませ。

霊肉ともにうれしうれし己の行為、行動に向き合いくださいませ。


「御神との約束」をマコトに御守りくださいませ。

御神に己をうれしうれしマコトに捧げくださいませ。


『まことから出たことは誰のねがひも同様。』


かむながらたまちはへませ いやさかましませ

御読みくださりありがとうございました。喜拝




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第三十四帖

 かみかかりはよしなされよ。そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ。そなたは自分で自分の首をしめるようなことをして御座るぞ。自分で勝手に小さい自分の神をつくってゐるぞ。一度その神をすてなされ、固く抱きしめたり、とぢこめてゐるから判らんことに行きつまるのぢゃ。判りたか。我(が)と判らん我(が)を気つけなされよ、今一息と云ふところぞ。



――― ここから ――――


かみかかりについて重要な帖ゆえ、念のために打たせていただきます。拝

神示は、含みも多分にございますから取り違いをしないように。

すべてはかみかかってゐるのでございます。

また動植鉱物すべて霊肉合わせての存在(無論、神・霊には順があり霊主体従。大切な大切な基本)。


そしてかみかかりといっても段階がございます事はお分かりと存じます。

(神とは人間の云ふ観念、学、理窟ではなく、我で作るならば“その我の範囲内の”一方的平面の囚われた神でしかない(その人、その団体だけのツクラレタ神ともなりかねない)。マコトの神とは所作を一致させた実践、体験から知る(治る)ことしかできないのです。なぜならば“所作・実践のともなわない理窟、学ではない”からでございます。拝)



『 カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。誰でも霊かかりであるぞ。石でも木でも土でも霊かかりぞ。これは一般かみかかりであるぞ、特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。(中略)世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。春の巻 第二帖』



この帖にもございますように、そこいらへいるかみかかりではなく(さらにワレヨシ、またハラがケモノおもちゃにされている段階ではなく)“マコトの神カカリ”となってくだされよ。といふ事でございます。



人間の云ふかみかかりとは幽界のカミかかりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。かみかかりにも、かみかかりと判らんかみかかり結構ぢゃなあ。まことぢゃなあと知らしてあるのに未だ判らんのか。(白銀の巻 第六帖)』



といふコトでございます。

それには学に囚われずに、マコトの実践をしなければならないのでございます。

(“ハラの潔斎”をしておらずに、現在の様々な学(知識等)・理窟により神とはこのようなモノだと“決めつけるのではなく”、マコトの体験から入らないとならないのでございます。つまりは“実践をしなさい”といふ事でございます。実践なきスコタンはこの真の意味すら理解させていただけることができないのでございます。つまり当方の打たせていただいている内容もわかったふりをするが、口先だけで事実まったくわかっておられない。*また同じコトを打っているように見えますが同じコトを打っているのではないのです)


それが下記の帖にございます。



『神かがりと申しても七つあるのであるぞ、その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ、(中略)これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ、早う神カカリになる様 掃除して呉れよ、神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。一二三唱へよ、祓えのれよ、神称へよ、人称へよ神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ、まつはり呉れよ、あななひ呉れよ。(日の出の巻 第二十一帖)』



ひふみ神示を拝読し十善をモトとした所作(口・心・行)の一致、生活に神示をうつし(ひふみの食べ方、マコトの芸術)、一二三祝詞を唱え、祓い実践(五つの働きの実践も含め)、マツリ実践、弥栄実践といふコトでございます。感謝弥栄弥栄

(『一分と九分との戦ひぢゃ(ソラの巻 第十一帖)』)



神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。惟神の国、惟神ぞ、神と人と融け合った真事の姿ぞ、今の臣民のいふ惟神では無いぞ、此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ。(日の出の巻 第二十一帖)』


まつりあい誠の神カカリになってくれよ。

といふ事でございます。



御読みくださりありがとうございました。拝




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第三十五帖

 化物に化かされんよう、おかげ落さんようにして下されよ。よいことを申し、よい行をしてゐても、よくない人があるのぢゃ。よくないことも御用の一つではあるが、そなたは未だそれを消化する程の所まで行ってゐないぞ。小学生が大学生のまねしてはならん。そなたはまだ慾があるぞ。慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。そしてまことの大深慾になりなされよ。その気持さへ動いてくれば、何事も見事成就するぞ。


――― ここから ――――


化物に化かされぬよう心より『正念(化物の判別はこちらを御覧下さいませ)』を持っていただきたく存じます。光拝

国、人ともに『ハラ(胴・十)の無い姿』とは、一体どのようにウツリマスでしょうか(己も含めて「化物に化かされてないか。鏡に映してみよ。」とも仰られているのでございます)。

消化するにはハラ(順序・準備)が必要でございましょう。



念のために。当帖の『消化』とは、実際にある『胃袋の消化のイメージからも色々示唆している』のでございます(「ハラ<真中>が無いから消化できない」とも成ります)。

恐縮ながら序でに、神示関連表現の『鼻』についても打たせていただきたく存じます。拝

意味的に申しますと、『タマの潔斎をせずツミ穢れ、タマが悪臭を放っている』というコトなのでございます(その悪臭で『鼻』が曲がり周りが大迷惑をするでしょう。悪臭に馴れて<麻痺>しまわないように願います。そのようになれば我々が霊肉イキ詰まり苦しみ殺されるコトになるのですから。心に本来無い地獄があるから調和・繁栄を乱す『鼻ツマミ』なのです)。

肉体も汚くなれば悪臭となりますから綺麗にしますように、心(国・人なども含め)も日々綺麗に掃除・洗濯をしなさい。という意味なのでございます(神州清潔の民)。


ツミ穢れたタマでナニを一体判断・判別(にほい、嗅ぐ、カギのあやまりはない。『一八の巻 第一帖御参照下さい』)すると云ふのでございましょう。

肝心要が無い『口・行』のみでは、鼻高傲慢となり慢心にも繋がると諭(さと)しておられるのでございます(潔斎しておらぬ口を慎めよ『高い天狗の鼻まげて自分の香 嗅いで見るがよいぞ。(黄金の巻 第十八帖)』にも恐縮ながらこのように繋がるのでございます。拝)。

潔斎をしておらずほざくとは一体ナニかと申せば、『化物』ともなってしまうのでございます。

(『かへりみるコト』が出来てない。ならば十悪を起こし、さらに他に悪業をさせるコトにより霊肉調和・繁栄が乱されイキ詰まり鼻も詰まるでしょう



このような者達(集団・団体)に誑(たぶら)かされぬように、サニワしキを付けていただきたく存じます(当サイト、ブログにございます『自己愛的変質者あまつふみの特徴』を御参照下さい)。


チキンとこれも打っておきますが、スパイ(エージェントとも云われるそうですが、たんなる『獣・悪魔の手先(ショッカー)』なのです)と云われている行為などに加担することももちろん、『十悪の行為・行動』なのでございます(直接的にも間接的にも霊肉ともに盗み、騙し、惑わし、二枚舌を行っているでしょう)。

また知らず知らずにおきましても『十悪を起こしているハラ』で一体どのような物のカミガカリと化(ナ)っているのでしょうか?

ですからハラをキチンと毎日正しく潔斎(当帖では『消化』)をしなければ、マコトの神カカリとは鳴らないのでございます(ハラに響くとは、譬(たと)えではないのでございます。神示とは神典であり神より賜ったうれしうれしの示でございます。何卒生まれ赤子心で実践をしていただきたく存じます。拝)。


まずは、己の潔斎(〇)をなさることが、サキ(幸)でございましょう。




よいことを申し、よい行をしてゐても、よくない人があるのぢゃ。


「口(よいことを申し)、行(よい行をしてゐても)」だけではなく、『心も必要』といふことを得心されたならば幸いと存じます。拝

『口・心・行の三つが一致した祈り(実践)がマコトのミチ』であると仰っているのでございます。




『慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。そしてまことの大深慾になりなされよ。』


慾を無くするコトではございません。浄化してくだされと仰っているのでございます(二十二)。

恐縮ながら『小乗の行も大切』であり、順序があり広さ深さがあり段階がございます(まずはひふみ神示を拝読くださいませ)。


他の喜びが自己の喜びとなれば、よりイキ通り自分がより広がると存じます(実践・体験から御知り下さい。拝)。

まことの大深慾におなりくださいませ。光拝


かむながらたまちはへませ いやさかましませ




――― 関係帖 ――――


上つ巻 第十九帖

アホバの巻 第十四帖

黄金の巻 第四十八帖

碧玉之巻 第十四帖




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第三十八帖

 はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。二月一日。



――― ここから ――――



世界の情報も御調べの方々はご存知でありましょうが、

恐縮ながら理由あり主に「異性に焦点を当てさせていただき」今回打たせていただきます。



その前に、御神示は『見るばかりではミにつかない』と仰っておられます。

よく噛みしめて味はひて『喜び』としなければなりません。



では、『食べる』とは一体どういう行動でしょうか。

よく『味わう』には噛まなければなりません。

『噛む』とは何を意味しているのか。



当帖、月光の巻 第五十二帖におきましても、和の正しきあり方の一つは『霊主体従』と仰っています。





それでは当帖にもございます「異性」につきましてでございます。

」や「異性」との喜びにつきましても「理屈ではございません」事は、恐縮ながらよく御承知と存じます。

この異性につきましても、御潔斎されておられないハラで勝手に意味付けをなさり、理屈で押し込めようとしてきたのが、身慾信心スコタンどもでございます。

その結果、理屈ではないものを「理屈」にしてしまい、さらに「男尊女卑の植え付け。性欲は悪い事だ」等で押し込め、泥棒邪霊集団に騙された人々は気が違い、狂っております(洗脳・マインドコントロールにより、それが当たり前、考える事なくただ正しいと思っている)。



含みが多々ございますゆえ大変恐縮でございますが、カルトに騙され思想汚染(思考停止)されている一部の人たちに向けまして、間に合う内に打たせていただきます。
「恋愛は良い事であり大切でございます」、何卒御潔斎なさり男女霊肉仲良くうれしうれし大いに和してくださいませ。



ところで皆様、『聖書』では旧約・新約とございますが、

旧約聖書の創世記におきまして「男と女」とございますように、男女を祝福なさり生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」言われた。

とございます。



1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

1:29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

1:30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。





「聖書」におきましても、男女は「元から祝福されている」のでございましょう(その後、様々に展開していきますが神の子たちは、時代背景もあり子沢山でございます。異性とは良い事だと打たせていただいております)。



誠に恐縮ながら、この聖書につきましても同じく潔斎していないハラでは味わう事は出来ません(素晴らしい信仰者も多いですが、その聖書すらも悪用や改ざんしてきた邪霊集団・泥棒がいます)。

仏魔も蔓延っている仏教も同じく、人道すら守ることができず、内省すらできないものがどのようなモトから神の言を理解できるといふのでしょうか?

『鍵』が無ければ開かない道理。



己らの身慾信心(妄想に基づく思い込みから生じた計画)に悪用するだけでございましょう。
また、「が違ったモト」から解釈しますから、その結果も「当然、気が違っている」のは道理でございましょう。



妄想から生じた禁欲等を“人々をコントロールする為”に理屈で押し付けるよりも、まずは『かへりみて』「人としての基本・基礎を知り日々御潔斎をしてください」ませ。

それがうれしうれし順序でございます。



序でに、大変恐縮ながら念を押して打たせていただきますが、御神は潔斎されてない妄想に基づく「禁欲」を説かれてはいません(御神示でもこのように仰っています)。

禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。(黒鉄の巻 第三十四帖)





誠に恐縮ながら御神仏は日々、警告も含めまして現在も人々に何千年以上も何度も何度も御教えてくださってゐます。

その御恩すら知らぬ存ぜぬ始末でございますが。



親の想いに応える為にも、うれしうれし日々改心改善なさり御一人御一人が、神の子足る自覚を御持ちくださり、日々「かへりみる、はぢる、くゆる」霊肉一致した作業により「おそる」「さとる」御五柱を社会・国も含めまして何卒御建てくださいませ。



恐縮ながら打たせていただきますが、くれぐれも基となる御五柱の「一」であります「かへりみる」御柱は、それだけは味わえず、さらに霊主体従含めまして順を守らず外れているならば歓喜となりません。

御五柱と御十柱とは霊肉一体でございます。



正しく「さとる」為には『霊主体従』足る順も知らなければ、うれしうれし霊肉潔斎とは、ならないのでございます。

これも理屈ではございません。



この正法を知らず、『神言』を盗み裏切る行為により本来無い地獄を自ら作り出し、魔につけこまれ、周りすら本来無い地獄で汚染する事になります。

ほっておけば、めぐりをツミに積み、他の苦しみすら自己の快楽に変換できるバケモノ、神を裏切り集団化した邪霊集団ともなってしまうのでございます。


気が違い、狂いに狂った悪魔どもの戯言(ざれごと)に何卒騙されないように願います。

時節的にも“霊媒も利用されてしまいます”ゆえに、恐縮ながらほどほどに願います。


騙されぬようにするには、「本質・正体を正しく霊肉観れるようにしなければ」なりません。

御十柱・御五柱の御助けが必要不可欠なのでございます。

恐縮ながら日々、うれしうれし御潔斎くださいませ。



御読みくださりありがとうございました。

かむながらたまちはへませ いやさかましませ

喜拝



神界の乱れイロからぢゃと申してあろう。男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。和は力ぞ。(春の巻 第二十五帖)




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第四十七帖

 八のつく日に気つけと申してあろう。八とはひらくことぞ。ものごとはひらく時が大切ぢゃ。第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ。そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。行き詰りは有りがたいぞ。省みる時を与えられたのぢゃ。ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。二月十八日。


――― ここから ――――


火と水(一と三)』の火水(ひみつ)を開(八・ウシトラ)き、九(コ)の花(八)といふ数霊などは今回割愛しまして、

御相談も含めまして様々にメール等をいただきましたが(ありがとうございます。拝)、

今年の締め(シメ)としまして当帖を開かせていただきたく存じます。光拝


ゆるりと御無理せずにうれしうれし御実践なさってくださいませ、少しでも参考になれば幸いと存じます。光拝

(盗み騙しなどを未だに行うスコタンがおりますから、ある理由があり仕方なく打っておきますが、当ファイルは平成二一年一二月八日に作成しております。 それほどに『狂った世』となっているのでございます、世の実状を御知りくださいませ。拝)


それでは失礼致します。拝
〇歩とはなんでございましょうか?

月光之巻他帖にございますように、一歩を踏み出す前に必要不可欠なのでございます。


ハラにうれしうれしマコトのキを入れよ。

潔斎をせよ。と仰っておられるのでございます。


一歩の、その前の『〇(レイ)歩』がなければ、『マコトの一歩』とはならないのでございます。


日々、口・心・行を結び掃除洗濯の実践、潔斎第一。



〇(マ)一二三四五六七八九十(コト)

祝詞なども『大いなる火水(ひみつ)』、意味(イミ)があるのでございます。
神言、数歌、祝詞 』を天地(あめつち)、三千世界に響き渡りますように、うれしうれし御唱え下さいませ。

(学・理窟ではなく『神言、数歌、祝詞は、祓ひ清めだけではなく、霊肉ともにさまざまに和(歓喜・調和・繁栄)をもたらし“イキ整える効果(治、御、知)”がある』のでございます。また『額の目』の御実践はされておられるでしょうか?何卒御使い下さいませ。拝)


御読みくださりありがとうございました。光拝




――― 関係帖 ――――


月光之巻 第四十五帖




――― ここから次の帖 ――――


月光之巻 第五十一帖

 世界を一つにするのであるから、王は(秘答理)(ヒトリ)ぢゃ。うごぎは二つとなるなれど、二つでないとうごかんのぢゃ。キはキのうごき、ミはミのうごき、うごいて和すのぢゃぞ。和すから弥栄ぢゃ。和せば一つぢゃぞ。キミとなるのぢゃ。そなたは自分と他との境界をつくってゐるなれど、境界つくってはならんぞ。境界をつくらずに、おのづからなる自他の別を生み出さねばならんぞ。世界一家のやり方 間違えて御座るぞ。それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、ミコト(実言)は一つと申して知らしてあろうがな。大難は小難にすること出来るのであるが、無くすることは出来んぞ。不足は不足をうむぞ。そなたは口をつつしめよ。そなたは一度 神をすてよ。神にしがみついてゐるから、小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。信ずれば信ずる程 危ないぞ。大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯をせよ。神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ。


――― ここから ――――


当帖は月光の巻 第五十一帖でございます。


『信ずれば信ずる程 危ないぞ。』


ヨのアリサマにて失礼致します。

御五柱、御十柱、うれしうれし無く、迷信(めいしん)妄信(もうしん)といふもの程、危ないものはございません。


他人に、他民族に危害を加える口実ともなりましょう。

それは妄想(もうそう)妄執(もうしゅう)に囚われた詭弁弄する「狂人(きちがい)」でございます。


これにより現在、日本人は、日本国内ですら迫害を受けております。

このことすらも知らぬ、大衆がおりまする。

アゲク、自分たちを結果、苦しめるものすら放置し加担すらする始末でございます。



このような人様を害するまでにナっている、おかしいものを、さらに信じればどうナるのでございましょうか?





さて、「貴方が信じるもの、信じておられるもの」とは一体何でございましょうか?


すでに、あまりに狂いに狂っておる世とナっております。


現在、世界の状況からも実感されておられると、

存じまするが、

照らせば、恐縮ながら元がおかしいと得心されると存じます。


元、おかしいゆえ、今の世とナっているのでございましょう。


この日の本にて「コトバを騙したサマザマな人身売買」すらも、公で当たり前のように行っている状態でもございます。


お気づきにすらなられませぬか?


このようなアリサマにて、神国などとは程遠い。

どの口がそのような神、かみ、仏、ほとけと云ふのでございましょうか?


ですが貴方はまるで、この事すら大変に恐縮ではございますがご理解すらできないでしょう。


盲信を続け、迷信にハマり、人様を害するコウジツともするのでございましょう。


「おかしいものをおかしい」とも観れない状態までにナり下がっておりまする。


このナリ下がりにより、とんでもない「バケモノシステム(仕組)」まで、作られております。


皆様が想像すら出来ない、狂人(キチガイ)の仕組でございます。





さて皆様、所謂、「信仰」とは一体何でございましょうか。


神、かみ、仏、ほとけと、口では言いつつも邪霊集団をつくる元すら放置を行ってきました。

公の騙しの人身売買など、それにてカンキする有様ですらございます。


大変に恐縮ながら、因、連なり、展開を観ますに、世つぶす基(もと)。

ゆえに邪霊泥棒集団 蔓延り、多くの民衆すら、すでに加害を受ける状態(段階)ともナっております。


様々な暴力により、ものすら云えぬヨともナっておりましょう。


この事実すら気づかぬ輩は、もはや閉口でございます。



うれしうれし御五柱、御十柱がまるで建っておられない。


さらに自国の、各国の、各言語の大切さすら分かっておられないとも存じております。


おかしい元(モト)が「ありました」から、今、現実にこのようなミがナっているのでございましょうに。


すでに観えず、云わず、聞けぬとは存じまするが、

よくよく御噛みくださばと存じます。



かむながらたまちはへませ いやさかましませ

御読みくださりありがとうございました。喜拝




――― ここまで ――――