アメの巻

第ニ帖(三三六)

 天の大神様は慈悲深くて何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力ありすぎて、人民には手におへん見当取れん、そこで神々様を此の世から追い出して悪神の云ふこと聞く人民許りとなりてゐたのであるぞ。七五三(しめ)は神々様をしめ込んで出さぬ為のものと申してある事これで判るであろがな、鳥居は釘付けの形であるぞ、基督の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよとは外国の事ぞ、(ヽ)が神国の旗印ぞ、神国と外国との分けへだて誤ってゐるぞ。大き心持てよ、かがみ掃除せよ、上中下三段に分けてある違ふ血統(ちすじ)を段々に現すぞよ、びっくり箱あくぞ、八九の次はであるぞよ。何事もウラハラと申してあろが、ひとがひとがと思ってゐた事我の事でありたであろがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ、日本が日本がと思って居た事外国でありた事もあるであろがな、上下ひっくり返るのざぞ、判りたか。餓鬼までも救はなならんのであるが、餓鬼は食物やれば救はれるが、悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様救ふのはなかなかであるぞ、悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。我と改心出来ねば今度は止むを得ん事出来るぞ、我程偉い者ないと天狗になりてゐるから気を付ける程悪ふとりてゐるから、こんな身魂は今度は灰ざぞ、もう待たれん事になったぞ十月の十四日、ひつ九のかみしるす。


――― ここから ――――


シメについては、“一二三”を逆にしたということでございます。(他帖参照あれ

細かく打つならば、

日月、火水、天地、霊肉の順序が、

月日、水火、肉霊(逆さま、逆)となり、

それだけではなく、月のみとなり、水のみ、肉のみとなった。(人の基本足る“真中、中心”さえ失った。一方のみ)

そしてさらに肉<悪>に囚われ取り違え等をしている。


ということ(奥、含み)を数霊からも示唆しているのでございます。


不二”とは『天と地』ではなく、『あめつち』。

ゆえにこのような意味からも『二二は晴れたり』でございます。(〇九十)



悪と善と取違へてゐる人民、守護神、神々様救ふのはなかなかであるぞ、悪を善と取違へ、天を地と信じてゐる臣民人民なかなかに改心六ヶ敷いぞ。


ゆえに心無い“悪ばかりの人民”となった。

自分たちが“悪”だという認識すらないのです。

悪を“善”だと“信じている”からです。

(ですから臣民人民なかなかに改心難しい。*取り違いなさるな。今の人々が思っている“善悪”を打っているのでありません)



よく考えていただきたい。

善ならばこの世が調和し心ある世となっています。

すべてはつながっているのですから


逆に人々の苦しみをカネ、快楽に変換している世です。

ゆえに逆ですから善ではないのです(構造的順序といたしましても、“人々から考えることを奪ってきた上のものが”まずは先にハラからの改心をしないことには下のものがさらに苦しむことになります)。



そして肝心のヽがなくなっています。

(ゆえに今の人民は“和を乱している”のでございます。打っておきますが、その場その場の巻き込まれと“和”とはまったく異なる《注:01参照》)。


悪とは“順序、法則”を守らず肉にのみ囚われている心(一方的。恐縮ながらここでは例にとりわかりやすく打たせていただいております)、ワレヨシ(身慾。自分だけがよければ、他はどうなってもよいという御恩知らずの思い上がり)。

肉中心でありつながりすら考えられませんゆえに和を乱し外れるばかり。

真心が“魔心”ともなっている。


マコトなく法則の逆をするのでございますから、千(智、地)は下がり暗くなる“一方”。

ゆえにこのような騙し殺しの蔓延る世となるのでございます。

道理でございましょう。

(これをイワト<一八十>シメというのです)



鳥居は釘付けの形であるぞ、基督の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ、


基督は“聖書では”奇跡を見せましたが、ここまでしても人々は改心しませんでした(ハリツケ後のことも含め打っています)。

それどころか挙句に罪なき基督に罪をキさせ“ハリツケ”にした。

(今も罪をキセテいることをお気づきか)


人々は何千年経ってもなお善悪もわからないくらい(暗い)ですから、基督の慈悲(愛)は理解できるのでしょうか。

いつになったら気づく事ができるのか。


少しでも“人々が理解しておられるのなら”基督を見習い同じ行為、行動をするでしょう(聖書におきましても、“どのようなコト”を行為・行動で御指摘なされたのでしょうか?)。

啓典の民が世界人口の半数以上を占めましても、嘘、騙し肉中心であり戦争を進んでしている始末。


つまり茲からも本当の“善、悪”を未だに理解しておられない証拠なのでございます。
(特に政治等についておられる人たちが、御神を裏切っておられること《天にツバしている》が、ここからもお分かりになるでしょう)


そして、人々はいつの時代も“本質ではなく”二義的なものに目(心)を奪われるのみでございます。



十字架等の像”につきましても未だにハリツケにしております。

いつまで血を流さすのでしょうか。

基督に罪を背負わせずに、そろそろハリツケからおろしてあげてはいかがでしょうか。

(勘違いなさるなよ。一人一人の心に神を宿らせるコト<真の教会>が肝心と打っている。

何千年経っても、このような騙し欺き殺しの世なのですから、人々の祈りが真<マコト>ではなかったとそろそろ気づいてはいかがか。

基督のマコトの愛にそろそろ応えるためにも『行為、行動が伴う“真の祈り”をしてはいかがでしょうか。』と打たせていただいています)


ここはとてもとても重要でございます。

一番の奇跡とは一人一人が改心し改善することです。

ならば当たり前に全体がよくなる。

(かがみを掃除、洗濯せよ)

すべての問題が順次解決していく。


これ以上素晴らしいことはないでしょう。

何事も一足飛びではなく一歩ずつでございます。

奇跡のないところに“真の奇跡”はあるのです。


お読みくださりありがとうございました。

拝礼



注01

KY等の言葉がございますが、これも悪(魔)に都合のよい言葉であります。

人々に見えない内的な脅しをかけ、意見もいえず人々を無思考等に誘導するための“危険な悪のシクミ”であります。

勘違い取り違えなさるな、これは“和”ではありません。

集団的な思考の強迫であり、人々から“考えるチカラ”を発言を奪う手段であります。

(『メンドウ、ツカレル』の言葉も同じく。この心無い言葉により子供たち含め、他人の顔色ばかり気にするようになります)

当たり前ですが“この非常識な流れ”を自覚していただきたい。


このような意味におきましても個人個人が意見さえ云えない世(窮屈、暗黙の世)となっているのです。

(思考を自己・他者から奪う事が“世の処世術”となっていると打っている。これでは善くなるものも善くなる下地がない。一二三、改善するにしても物事には順序・段階があるのでございます)

すべての災い(囚われ)とは“人の心が作り出している”ものなのです。

(各人が地獄を作り作らせている)




――― 関係帖 ――――


一八の巻 第八帖(三七三)

龍音之巻 第十八帖




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アメの巻 第八帖

 大難小難にと祈れと申してくどう知らしてあろがな、如何様にでも受け入れてよき様にしてやる様仕組てある神の心判らんか、天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。今の守護神、悪の血筋眷属であるぞ、悪も御役ながら奥表に出ては誠おさまらんぞ、悪結構な世は済みて善結構悪結構卍(ホトケ)結構基(ヤソ)結構儒(コトゴトク)結構の世となりなる神の仕組近くなって来たぞ。世の元からの仕組、中行く仕組、天晴(アッパレ)三千世界結構であるぞ、心の不二も晴れ晴れとなるぞ、結構々々。甘くてもならんぞ、辛(カラ)くてもならんぞ、甘さには辛さいるぞ、天の神様許りではならんのざ、くどう申して此処迄知らしてゐるにまだ判らんのか、心さっぱり大河に流して神示読んで下されよ、何時迄も神待たれんぞ、辛さには甘さかげにあるのざぞ、此の道理よく判るであろがな、水の味火の味結構ぞ、恐い味ない様な結構な恐さであるぞ、喜びであるぞ、苦しみであるぞ、此の道理よく判りたか。神の御恵み神の御心判りたか、御心とは三つの御心ぞ、一と十ととであるぞ、御心結構ぞ、世の元の神の仕組の現はれて三千世界光り輝く、あなさやけ。十一月二十七日、ひつくのか三。


――― ここから ――――


被災された皆様に心より御見舞い申し上げます。


外国では戦争も起こっている時節ではございますが恐縮ながら当帖を打たせていただきます事を何卒御容赦くださいませ(日本だけでも年間自殺者三万人以上の問題も忘れずに願います)。


海外も含めまして誠に恐縮ながら観させていただきましたが、未だに結果災厄等を待つ心根を持つスコタンがいる始末(どのようなモノに使われているのか)。

含みもございますが歓喜に裁きのない如く、神には裁きはございません。

どのような理由にしろ、その様に待ち望む己の姿を鏡に映し御覧下さいませ。


平面的にも外れた心根では、行けども行けども白骨ばかりでございましょう(そのような段階では白骨ばかりと打たせていただいております)。

仕舞いには、とんでもない邪霊大泥棒集団(悪魔)の仕組・邪に利用されつけ込まれてしまうでしょう。



過去、何千年に渡り幾多もイクサ、災害等が起こりましたが、人々の心根はどうだったでしょうか?(旧約聖書につきましても未だに盗まれていますゆえ打たせていただきますが、畏れながら元神は一切犠牲・生贄等を求めてはおられません。畏れ多くも歓喜であらされる神とは生き血などを啜る存在だとお考えか。何千年以上も神に捧げよ【玉串】と仰っておられたのでございます。過去少し当サイトにて打たせていただきましたが、誠に恐縮ながらいずれ機会あり皆様に御伝えさせていただけるならば幸いと存じます。拝)。



ひふみ神示信奉者・世界にもおられる神の息を入れた誠の神民の皆様方におきましては、日々己のイクサをなさり、そのようなハラはないとは存じますが、大変恐縮ながら大難とならぬよう善の外道・悪の外道ともに、何卒立体の御道に戻りうれしうれし御実践くださいませ(世界の有様をサニワなさりどのような化物がいるのか御知りくださいませ。巧妙に盗み騙し等を行い加担させ人の基礎・基本足る当たり前すら守れないようでは、神・仏とぬかすのすら盗みであり邪霊集団でございましょう)。




言・光・歓喜として現れてくださっているのでございます。
御恩を知り霊主体従等、順を守り御五柱・御十柱を御建てうれしうれし玉串と御なり下さいませ。


此度はタマのイクサでもございます。


恐縮ながら掃除第一、大掃除・大洗濯、益々うれしうれし御神示を日々拝読・朗誦させていただきマコトの祈り・御実践を治めくださいませ。

光の国(御光の御世)実現に向け益々カイの御用等も忘れずに願い上げます。



かむながらたまちはへませ いやさかましませ

御読みくださりありがとうございました。拝





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アメの巻 第九帖

 神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、 の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。何もせんでゐて、よき事許り持ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ。目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ。人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ。十一月二十七日、ひつくのか三。


――― ここから ――――


此の世の事は人民の心次第ぞ。


 霊肉うれしうれし御五柱、御十柱が備わってない集団、組織が、いくら綺麗ごと、人々に云おうと、誠の行い霊肉うれしうれし出来ぬものは「宗教ではございません。

そのようなモノが聖典、聖書を読めばどのような解釈となり集団行動となるでしょうか?


「先祖、霊が見える何々」等にて引き寄せるのも貴方を騙す手管でございます。

さらに「日本の民が悪いなどという罪悪感などを洗脳すること」もまた同じくでございます。


大変に恐縮ながら、「此の世の事は人民の心次第」でございます。

一刻もはやく、離れくださいませ。


ここは日本でございます。

 現在までの「日本の相」から、どのようなダマし宗教、まがい物思想が、あなた方を騙してきたのかを霊肉うれしうれし内観をされてください。

もはやこのものらには、まったく届かぬ状態かもしれませぬ。

「霊肉御五柱、御十柱を建ててない集団、組織」からは一刻も早くお離れくださいませ。

また、「このような日本の民を、騙(だま)し誑(たぶら)かす集団、組織が日本にある」といふことは何を意味することでしょうか。

ほってほくこともまた同じくでございます。


いいでしょうか。

「此の世の事は人民の心次第」でございます。

これからの あなたがたのこと でございます。



かむながらたまちはへませ いやさかましませ

御読みくださりありがとうございました。喜拝




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アメの巻 第十帖

 天の岩戸開いて地の岩戸開きにかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。ひどい所程身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)致すのであるぞ。五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除計りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるがキは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。臣民利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組ならこんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざぞ。此の地(つち)も月と同じであるから人民の心 其儘に写るのであるから人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。理屈悪と申してあろが悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ。オロシヤの悪神の仕組人民には一人も判ってゐないのざぞ。神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様に祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様拝(おろ)がみなされよ。日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ。十一月二十七日、一二


――― ここから ――――


といふコトでございます。拝

当巻八九十を“ハラ”で拝読(朗誦)くださいませ。

掃除・洗濯、うれしうれしの松心・キの御用が何より肝心要。

天災待つは悪の心、邪と知らしてあるがまだ判らんのか、くにまけて大変待ちゐる臣民 沢山あるが、そんな守護神に使はれてゐると気の毒になりて来るぞ、よく神示読んで下されよ。アメの巻 第八帖)



御縁ある御仁は、日々ひふみ神示をうれしうれし拝読(朗誦)し潔斎(実践・アホバの巻 第三帖)なさってくださいませ。


かむながらたまちはへませ いやさかましませ

御読みくださりありがとうございます。



田舎田吾作光拝


松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。(アメの巻 第十四帖)




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アメの巻 第十ニ帖(三四六)

  上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民可哀想なから此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ絶ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肚に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ 忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざからくどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから妙な事此の方がさしてゐるのざから、神の臣民心配ないなれどさうなった神の臣民未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云ふ事あるぞ、臣民可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んからやりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇(ぢゃ)でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが、愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国真中の国は十万二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのさぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。十二月七日、七つ九のか三神示。


――― ここから ――――


・カイの御用・初めの行

(さらに順序・段階→)


食い物大切に家の中チキンとしておくのが(中略)出て来ねば判らんようでは神力ないぞ。


カイとは貝、イカで“烏賊”。

(他の帖にある『マアカタ』という言葉も返しでタカアマ高天

ゴミ箱に貝、イカがあれば鼻が曲がるほど臭くてたまらない。

腐る臭いあると何をしてもソレが気になって美味しくない。

食べ物、貝(カイ)が腐ればどうなるか。


ソレが曇りとなり心から楽しめない。

呼吸(イキ)すらできなくなってしまう。


気()も“滅入る”でしょう。


この帖にも“裏のイミ”がたくさんありますが、学・理屈をひとまずおいて、うれしうれし“マコトのあほ”になっていただきたく存じます。

まずは初めの行が肝心要『改(カイ)心、掃除第一』。


・裏(ハラ)

クイモノは大切に。

家、台所を掃除するには火水(温水等)、風(換気)を使い行いますが、どうしてもトレナイのであれば換えるしかない。


カイの御用とは鼻の御用(鼻はスサナリの大神)でもある。

匂い。あらゆる意味で匂いをきかす。

悪神の悪巧み(悪神の息)にも鼻をきかせるということ。

災いを起こす前に人々が指摘→人類破滅の社会的問題、原発、劣化ウランの被害等、また政治、食の問題、環境。


わかる前に行えば人民が災いにならず苦しまずに済む。

(ならばカイがあるというものでしょう)



少し外れますがこれをおいておきます。

海外に原発を作ったとして、被害が数年後に起きたとしてもそれは別の問題として片付けられるでしょう。


科学的根拠がないという理由等で。


また上記の外的意味だけではなく、

内的意味が表にあります。


自分の中の悪の匂いのカイの御用。


人とは神の器でありますから、内省<匂いをかぐこと>し改善することが誠の神を祀れるというコトにつながるのです。

また一つの意味として、“鼻ポキン”とはこのことでもあります。


匂いが『かがれんようになるぞ』。


――― ここから補足 ――――


出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ、軽き輩(やから)ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事 誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。


原因となるものが出てきてから解るようではいけない。

それはまだまだ改心できてないという証。

(誠の改心ではない)


・裏

トリカエシがつかなくなってからから解るようでは軽きヤカラ。

トリカエシがつかなくなるということはトリカエシできないということ。

もちろん物質的なイミだけではありません。


今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ


ということです。



神が苦しめてゐるのでないぞ、人民 自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな


人々は自分で苦しみのモトをつくり自分で苦しんでいる。喜んでいるマゾもいるシマツ。それにマキコモウトするヤカラもいるシマツ。


神はそれをおさえておられる。

セイにする恩(御恩)知らず。


ここの『カイの御用』とは掃除、洗濯が第一、

ハナを利かせる。



――― 補足帖 ――――


の巻 第十一帖(二八五)

 『カイの言霊(かへし)キざぞ。キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ。』




――― ここから次の帖 ――――


アメの巻 第十四帖(三四八)

 一番尊い所一番落してあるのぢゃ、此の事判りて来て天晴れ世界唸(うな)るのぢゃ、落した上に落してもう落す所無い様にして上下引繰り返るのぢゃ、引繰り返すのでないぞ、引繰り返るのぢゃぞ、此の事間違へるでないぞ。此の道難しい道でないぞ、欲はなれて、命はなれてなる様にしておりて下されたらそれでよいのぢゃ。今が神国の初めぞ、今までのことすっかり用ひられんのに未だ今迄の事云ふて今迄の様な事考えてゐるが、それが盲聾(つんぼ)ざぞ、今迄の事自慢すると鼻ポキンぞ、皆鼻ポキン許りぢゃなあ。まだまだ俘虜(とりこ)になる者沢山あるなれど、今度の俘虜(とりこ)まだまだぞ、何れ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ、次に又捕へられる者出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ、是も因縁ざぞ。神の国は誰が見ても、どう考へても、二度と立ち上がられん、人民皆外国につく様になって此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、人民臣民早合点して御座るが九分九分九厘と申してあろがな、事務所作らいでもよいぞ、事務所作るのは表の仕組ぞ、裏の御用事務所禁物ぞ、それぞれの役員殿の住むとこ皆それぞれの事務所でないか、よく相談してやりて下され、段々判りて来るぞ。表と裏とあななひぞ、あななひの道と申してあろ、引寄せる身魂は、天で一度改めて引寄せるのであるぞ、今お役に立たん様に臣民の目から、役員の目から見えても袖にするでないぞ、地でも改めしてまだまだ曇り取らなならんぞ、磨けば皆結構な身魂許りぢゃぞ、人民の肚さへたら天もさへるぞ、心鎮(しづ)もれば天も鎮もるぞ、神勇むぞ。我(が)はぢっと奥に鎮めて表面(うわべ)には気(け)も出されんぞ、我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民草木にかへしてしまふぞ。此の神示無闇(むやみ)に見せるでないぞ、神示は出ませんと申せよと申してある事 忘れるでないぞ。天の規則千でやる事になってゐるのざぞ、今度規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。次に世に出る番頭殿まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、三日天下でお出直しぞ、その次もその次も又お出直しぢゃ、此の神示よく見てこの先何うなる、其の先どうなると云ふ事、神はどんな事計画しておいでますと云ふ事判らいで政治ないぞ、すればする程悪うなるぞ、神にはこうなる事判って呑んでゐるのざから、何んなことあっても心配ないなれど、それでは臣民可哀想なから、此の神示ウタにして印刷して世によき様にして皆に知らしてやれよ、表の集団でよいぞ、神は天からも地からも日も夜も九十(コト)で知らしてゐるのに、九十(コト)聞く身魂ないから、九十(コト)きく御身(みみ)曇りてゐるから、人民は判らんなれど、余り判らんでは通らんぞ、早う洗濯掃除せよと申してゐるのざ。人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、青氣(てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。十二月十八日、ひつ九のかみ。

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此の方の申した事、神示に書かした事、皆 嘘(うそ)ざと申す所まで世が落ちてしまうてから始めて神力現れるのざぞ、


ある状況、面(メン)では、ひふみ神示が嘘(偽書)であるという人も出てくるでしょう(過去から少しございましたが)。


ただそれはひふみ神示が世に出てきているという嬉しい嬉しい証(あかし)でもあるのです。

ですがこのような人たちがおられたから、マコトが広がらずにイキ詰まり苦しみの世となってきたのです。

(色々なワレヨシの思惑<肉欲、自己顕示欲等>があると存じます。また、ある“理由”から学(知識)のみで観念的に不思議世界を展開している人たちがおりますが、神を無くしてマコトがないならばしている意味すらないのです。一体ナンノタメにしているのでしょうか)


マコトの神示が世に広まらないというコト自体が“悪”なのでございます。

なぜならば神示はうれしうれしの“キ”であり、調和の法(十善)、理(ミチ)、徳であるからでございます。


ゆえにそのような事が起こったとしても、このように予(あらかじ)め神示で教えられている事でございますゆえに堂々(ハラで知り)としておいていただきたく存じます。

当神示は十善、数霊等からも証明していますように、茲より他にないマコトの神よりのありがたいありがたい贈り物でございます。広めください

(ですが神示にございますが、無理に他を引っ張る事はしないように願い上げます。拝)



我の無い様な事では、我で失敗(しくじ)た此の方の御用出来ないのざぞ、毒にも薬にもならん人民 草木にかへしてしまふぞ。


我にも主に三段階ございますが割愛。

慾を浄化することが弥栄となるのでございます。

つまり慾はあってもいい、無い方がおかしい(霊があり肉があるのですから)。

無論、ワレヨシ、自分等が快楽を得る為に他を騙し排し苦しめるような我は外道でございますから論外でございます。


ちなみに、神示は禁欲を説いているのではございません。


また我で失敗(しくじ)た此の方とは誰を指すのかは、ひふみ神示が降ろされた前後(また神話等)、時代背景も含めお考えください。

ここからも色々(一六一六)と観得てくるのでございます。

『天で一度改めて引寄せるのであるぞ、』

打てぬコトもございます、ハラで知っていただきたく存じます。



次に世に出る番頭殿まだ神なきものにして御座るから一寸先も判らんぞ、先判らずに人間の勝手な政治して世は治まらん道理ぢゃぞ、


番頭殿は改心していただきたいものでございます。

物質的(唯物論的)な土俵でいくらしましても“平面”であり、心も無く歓喜がないゆえにイキ詰まるのでございます。


また、カネを稼ぐために何百年も神との約束<十善(十戒)>を守らず裏切り騙し殺しをしてきた人たち<穢れたタマ、メグリ>のカネに執着し、物質的暴力の土俵でいくら行っても一方的、不毛であり勝負になりますまい<全世界の人口1%に満たない極少数に莫大なカネが集中しているのです。カネ中心というシステムに世が巻き込まれている>。

ゆえにこのような乱れた世となっている。

(つまり別の見解ならば多くの人たちは心有る方たちなのでございます)


愛足る地球に感謝なく(食べ物、身の周りすべての物は地球から与えられてるでしょう)、その地からわざわざ人殺しの武器を作ってきた人たちの土俵なのでございます。

しかもいまだに彼らの中には神、心がないと信じている人達さえおられる。

(チを上げ改めくださいませ。一日も早く改心されますように心より御祈り申し上げます)


ゆえにその平面的土俵でしても歓喜無く、イキ詰まり無駄(憑<疲>かれるだけ)でございます。


我々はマコトのキの入った“立体の土俵”に上がらないと成らないのです。

(ゆえに神示があるのです。神示とは学・理屈ではなく“神からの示し<神示>”でございます)


各々が御魂の掃除、洗濯をし口、心、行を一致させ御心に適うことがなにより大切、肝心要。



松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。



色霊(イロダマ)の“みどり”からの示唆。

(霊)を入れる。

つまりひふみの食べ方も示唆しているのです。

ひふみの食べ方をしていただきたく存じます。



豆知識:

松(まつ)

一)木の名。古くから、長寿・不変の象徴として尊ばれた。

二)「たいまつ」の略



神示は油であり灯火(燈台・灯台)とナルという意でもございます。

もとへ来てあかりとなれよ。光となれよ。(黄金の巻 第九帖)



お読みくださりありがとうございました。




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