碧玉之巻
第二帖
気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和にならんと知らしてあろうがな、今度は合わんものと合せるのぢや、岩戸がひらけたから、さかさまのものが出て来てゐるのぢや、この行(ぎょう)、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸はひらけんのぢや、マコトの神さえ魔神のワナにかゝって御座るのぢや、人民がだまされるのも無理ないようなれど、だまされてゐては今度の御用は成就せんぞ。自分自身にだまされてゐる人民も多いのであるが、ついて御座れよ、少しは苦しき行もあるなれど見事なことを致して御目にかけるぞ、自分でもビックリぢや、はじめからの神示よく読んで下されよ、霊かゝりよろしくないぞ、やめて下されと申してあろう。
――― ここから ――――
『タマのイクサ』をしなさいと仰られているのでございます。
掃除・洗濯しないハラの『霊かゝり』は人を惑わすだけでございましょう(カイの御用などはキチンと実践しておられますか?)。
ならば御神業の邪魔となり獣、魔の思うツボとなりましょう(世を惑わすカネに魂を打った工作員もゐる始末、色々な意味本人が利用されているコトにすらふわふわと足着かず、気づいていないケースもある始末)。
ですから『やめて下され。』と仰られているのでございます。
『誠の神カカリ』になってくだされよ。と仰っているのでございます(『日の出の巻 第二十一帖二三四』等参照)。
下記帖も拝読されていると存じますからピンとくると存じます。
神示を日々拝読(朗誦)し、潔斎し、一二三祝詞を唱え下さい。光拝
『神かがりと申しても七つあるのであるぞ、その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ、
ガカり、かみかかり、か三かゝりぞ、
(カミ)ガカリぞ、
(かみ)かゝり、か三かゝり、かみかゝりざぞ、神かゝってゐないと見える神カカリが誠(まこと)の神カカリと申してあろが。そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑りぞ。神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ、これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。日の出の巻 第二十一帖』
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碧玉之巻 第四帖
真の懺悔は正法をおさむることであるぞ、掃除することであるぞ。先づ御(おさ)め、次に治(おさ)め、次に知(おさ)めねばならんぞ、素盞鳴(スサナル)の大神は先づ滄海原を御め給ひ、更に蒼海之原を治め給ひ、次に天下(あめのした)を知め給うたのであるぞ。素盞鳴の大神が悪神とうつるのは悪がそなたの中にあるからであるぞ。
――― ここから ――――
ゝ重要な根幹の帖
“真の懺悔”とはなんでしょうか。
『かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる』のマコトの働き(動き)をするには、“土台(真中)”がないとなりません。
時代、国等で善悪が変わるようなモノならばマコト(正法)ではありますまい。(つまり“変わる(動く)”のですから“真中ではない”のです)
現在の人々は善悪を知らず人の苦しみを快楽に変換しているほどの心の状態なのです(人の苦しみを喜びだとしている人たちもいます。各々の心をご覧ください、他人、生物が苦しんだ時に、はしゃぐようなヨロコブ“我”がございませんか?(TVにおきましても他が馬鹿にされ虐められている場面におきまして何も躊躇することなく笑う人たちすらいるのです)それが魔に巣食われてる証拠なのでございます。これが“内観の初歩”であり、このように簡単に判別ができるのです。この当たり前を知らないということは“今まで自分の心を観てこなかったという証明”なのでございます)。
また動物についても殺し結果その苦しみを味わっているのです。(戦争、経済についても同じく他の天恵を奪っているのです。これがつながりを観させていただくといふコトなのです)
智(千)が“暗い”とは内観ができない暗闇状態であります。 ゝつながりが観えないとは→マコトの和を知らない→つまり大和となりえない
ゆえに光が射さず先(幸)が観えない。
つまりミタマが肉、我に囚われ暗闇(ケガレ)に覆われているために“閉ざされ”、つながりすら観る事ができないといふことなのでございます(ゆえにこのような意味におきましても理窟とは悪)。
そこが“魔の棲家”となるでございます。
他の苦しみを喜びに変換できるコトがすでに心無き化け物でございます(そのようにワザワザ心を壊す訓練している人達もおられる、カルトにしてもそうでございましょう。分かり易い例ならば兵士を御覧なさい。そのような心無きシステムが実際にあり、人々がおられるから乱れた日本、世界になっているのです。昨今はようやく“実感”されている事と存じます)。
このようになってしまうと思考するコトすらできなくなり心的御柱が壊され落ちることになる。 十善をする人たちを邪魔するならばさらに化物でございましょう(我々を苦しめる“十悪”を行い次第にヨイ事必要な事だと錯覚し“妄想の固定化”となる。団体ならば集団ノイローゼ化)。
本人(達)は自分で思考していると思っているのですが内観すらできないゆえに操られ放題なのです(上記は低いレベルの内観なのですが、失礼ながらこの段階すら今の人たちは“理解、実感”できないのです)。
そのような邪な心(ケガレ)の状態で一体何を懺悔しようというのでしょうか。
この帖は真の祈り(意乗り)にも通じる重要な帖でございます。
正法とは十善でございます(詳細はリンクご覧ください)。
(判断、善悪を見分ける。今の世はまだこの低い初歩段階にいるのです)
土台があり、そこで初めて善悪を知ることができ(小乗を基本とし御し、治し、知らす)本当の改心(内省)につながり改善(行為、行動、実践)となるのでございます。
全体が良くなれば個が良くなるというつながりを知るのでございます。(光射し響き鳴る)
ゆえに知り知らすコトにつながる。
これが真の懺悔であり、真の祈り(意乗り、内実)につながるのでございます。
ゆえにこの前提(順序)が整いはじめて“掃除(祓実践、マツリ実践、弥栄実践)”となるのでございます。
ひとつを細かく打たせていただくとこのようになります。
何事も順序、段階があり一歩一歩でございます。 (まずは小乗が肝要。十善を御め治めください)
“真の懺悔”にも一二三(ひふみ)と順序段階があることを説いているのでございます。
*当方もこのような帖は現代に合わせ分かり易く打たせていただいておりましたが『この世とは肉のみの平面ではなく霊があり肉がある立体なのです。』これは神からの啓示“日月神示”でございます。そろそろ、うまれ赤子の心あほになって目覚めていただきたい、漫画のような事が起こっているのでございます、祓清めください。『又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。アメの巻 第十七帖 三五一』
――― 関係帖 ――――
ア火ハの巻
第三帖(四七二)
月光の巻
第六帖
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碧玉之巻 第六帖
わざわひと言ふものは無いのであるぞ、光をわすれ、光にそむくから、イヤな事がおこるのぢや、影がさすのぢや、禍とか悲しみとか言ふくらい(暗い)ものがないのがマコトであるぞ、中心は無と申してあろう。中心は見えんから、判らんから、外のカスばかり見てゐるからつまらんことで、つまらんことが起ってくるのぞ、その見えぬ力が永遠の生命と現われるのであるぞ、見えるものは有限ぢや。この世の大泥棒をタカヤマぢやと申して、この世を自由にさせておいてよいのか、元の元の元をよく見極め、中の中の中の見えぬものを掴(つか)まねばならんぞ、そこから正さねば外側からばかり清めても何もならん。
――― ここから ――――
二度目の新年(めでたや、ぺったんぺったん)でございますから、二本足で立ちかへり基本を失礼致します(キの御用。うれしうれし節分の祝詞を三箇日唱え下さいませ。光拝)。
その前に、諸説ございますが、なにやら気になりますので、この情報も念の為置いておきます。拝
本日は旧暦元旦でありまするが、旧紀元節とも少しは関係するのではないでしょうか。
紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祝日。1873年(明治6年)に、2
月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ(中略)日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。(中略)同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。この1
月29日とは、1873年(明治6年)の旧暦1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月3日をもって1873年(明治6年)1月1日とし、新暦が施行されることになっていた。(中略)『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが(ウィキペディアより)
ところで、平成二十二年(二〇一〇)の元旦が満月(望)であり、旧暦元旦が新月(朔)だったと存じます。
なにやら興味深いと存じます。光拝
それでは当帖を。
碧玉之巻第六帖は、本来無い地獄を人々がワザワザ作っているといふコトなのでございます。
さて、どうやら化物(狂ったスコタン)に化かされ皆様はハラも具合がオカシクなっているのでございましょう。
ハラも無くなってしまいましたか?
見える世界もどのようにウツっているのでしょうか。
恐縮ながら茲までの狂ったアリサマでございますから、もう目覚めていると存じますが、未だに自分にも化かされ騙され逃げ、正神すら化かされているのではないでしょうか(『マコトの神さえ魔神のワナにかかって御座るのぢゃ、人民がだまされるのも無理ないようなれど、だまされてゐては今度の御用は成就せんぞ。碧玉の巻 第二帖』)。
それでは。
芽出度い日でございますゆえ、タカヤマを盗んできた『大泥棒の正体(おおどろぼうのしょうたい)』を皆様に御見せいたしましょう。拝
まず、泥棒(どろぼう)とは、なんで泥棒(どろぼう)と呼ばれるのでしょうか?
ミチを外れ(外道)人様からものを『盗(ぬす)む』
からそのように呼ばれるのでございます。
<辞書より>
泥棒(もと泥坊):
他人のものを盗む・人(のこと)
盗(ぬす)んでいる『泥棒集団(どろぼうしゅうだん)』はおりませぬか?
(他人の郵便物まで盗む泥棒集団もいる始末。ちなみに、ひふみ神示と申して、しているコトが潔斎もせず御恩も知らず順序も乱しむちゃくちゃな大泥棒集団も含めでございます。世界には金融泥棒もいる始末でございますが)
つまりこのような霊肉十悪を犯す行為・行動から観れば簡単に得心いくでございましょう。
任務?スパイ?と称し(それはただの泥棒であり、盗み騙し被害者を苦しめているだけの神を裏切った心無いスコタンでございましょう。笑止)他人の書類(個人情報含め)等をインターネットから盗み(改ざんもし)それをマワシテイルスコタンどもの『裏(隠れている)』にいるのが大泥棒の正体なのでございます(今では尻尾もまんまと出し悪行も正体も明らかになりました。『破壊的カルト集団』と呼ばれ人々に忌み嫌われておりまするが)。
このように霊肉十善の神に照らし、サニワすればいとも『簡単・明瞭に答へ』が出るのでございます。感謝
さて、その集団にあなたは属しておりませんか?
(当人に無許可で書類等を盗んだものを、他人が見る事も盗むコトに加担しているのでございます。その魔・獣の仲間に知らず知らずになっているのではないですか?また集団ストーカーも含め、対象<被害者>に対してツキマトウ行為をさせられたコトはございませんか?それらすべては印象操作、レッテル工作も含め“泥棒集団に加担をされている”行為・行動なのでございます。喝破)
しかも、そのような泥棒集団に関わり、厚顔無恥、暗愚、頑迷にも神・仏は云々だと平然と語ってはおりませんか??
(釈尊、イエス様などは騙し、盗んでよいと仰ったのでしょうか???仰ったのですか?つまり、それに加わるといふコトは釈尊・イエス様を裏切る『悪事の加担者』でございましょうに。その悪事の加担者が神・仏の御用ができるとお思いか?使命が果たせるとお考えか?つまりそのようなコト<悪行>を何の疑いも無く行えるという心根を持っているという事なのですから、『潔斎すらマコトにしていない』というコトなのでございます)
まず他人に神・仏と云ふ前に御自身をかへりみて、マコトの潔斎をなさっていただきたく存じます。拝
神示でも仰っておられますが、当たり前でございますが、『潔斎していない者は、神仏の御用(使命)には関われない(アホバの巻 第三帖御参照)』のでございます。
そもそもハラの潔斎をなさっておられないスコタンには『判断するイシもない』でございましょう(イシ無く霊肉十悪を犯す、ミチを外れたスコタンが判断・行動すればどのようになるのかは、すでに何度も散々実感されておられると存じます。そのサキにはワレヨシ・支配・虐殺・監視・統制の心無い目論見でございましょうに)
我々にとってそのような心根(ある意味『ハラが盗まれている』のです)で判断・判別されてしまっては困るのでございます(『霊肉十善の言』の逆を行うスコタンなのですから。こちらを御参照)。
しかも大泥棒(この『大』にも含みがございます)。
マツリゴトすら盗まれていると仰っているのでございます。
神示にも「入れないところ」にもと、ございましょう。
日本の皇室の件におきまして云われておりますコトでございます。
何卒御注意くださいませ(また日本の天皇制は知られているだけでも二六〇〇年以上であり、日本とは世界に比類なき奇跡的歴史を持っている神国なのでございます。この意味を日本国民はハラで考えていただきたく存じます)
神示の該当する一部も少し御覧下さいませ。拝
この道
十(と)りに来る悪魔あるから気つけ置くぞ。下つ巻 第三十三帖
魔の仕組、神の仕組、早う旗印見て悟りて下されよ、アメの巻 第五帖
何も知らんものが出て来て邪魔するぞ。黄金の巻 第五十二帖
現在の世を支配していると思っている者達は実は『大泥棒』だと神示は仰っているのでございます。
なぜでしょうか?(ここまで我々人々を騙し盗み苦しめてきた悪事・悪行が出ているのでございますから、もう身に染みてお分かりと存じます)
そして十悪を起こし起こさせてもいます(ブログにも打たせていただいております。恐縮ながら必須必見の情報と存じますゆえ御読みくださいませ)
現在のトチ狂った世の実状、メディア操作・改ざん、言論封殺・統制、ありえない集団ストーカー、電磁波攻撃、自然に見せかけ暗○等を行っている行為・行動を観ればどのような心根のスコタン集団なのか一目瞭然でございましょう。
そのような悪行を神・仏がしろと仰りますか?
しかも日本の仏教とは大乗だと胸を張っているでしょう。
ちなみに、大乗仏教とは嘘、偽り、騙し、盗むためにあるのですかな?(ならばなぜ大乗仏教徒は声を挙げないのでしょうか?仏法よりも価値あるモノがあるのですかな?多くの人々が苦しみ殺されております、御協力・御支援を賜りたく存じます。拝)
カルト信者はこのような簡単明瞭なコトすらも考えるイシがございませんから理解すらもできないのでございます。
また読むなともいわれ情報を遮断されてもいる。
とどのつまり。
“あなたたちは”そのような邪霊集団(実は大泥棒)に騙されていると神示は仰ってくださっているのでございます。光拝
前提としまして、
大泥棒(狂った人)がいないならば『このような狂った世』とはなっていないでしょう。
といふ、いたって『単純明解な答(こた)え』なのでございます。拝
恐縮ながら、もう当方の言も見えない聞こえない人々も多いとは存じます。
御縁ある方々だけに御伝えさせていただいております(また、もし当帖内容が迫ってくるように感じたならば、霊肉十悪を起こし起こさせている心根を持っているのかもしれません。恐縮ながら我を昇華し潔斎してくださいませ。拝)。
何卒うれしうれしカタを出しくださいませ。拝
かむながらたまちはへませ いやさかましませ
御読みくださりありがとうございました。光拝
『日本の人民もわたりて来た人民も、世持ちあらした神々様も人民も、世界の人民
皆思ひ違ふぞ、九分九分九厘と一厘とで、物事成就するのざぞよ。世をもたれん天地の大泥棒をこの世の大将と思ってゐて、それでまだ眼覚めんのか、よく曇りなされたなあ、建替は今日の日の間にも出来るなれど、あとの建直しの世直し、中々ざから、人民に少しは用意出来んと、おそくなるばかりぢゃ、それでカタ出せ出せと申してゐるのぢゃぞ。あれこれとあまり穢れてゐる腸ばかりぢゃから、一度に引出して、日に干してからでないと、洗濯出来ん様になりて御座るぞ。ひぼしこばれん人民あるから、今のうちから気付けてゐるのぢゃぞ。けんびき痛いぞ、あまりにも狂ふて御座るぞ。元の根元の世より、も一つキの世にせなならんのざから、神々様にも見当取れんのぢゃ、元の生神でないと、今度の御用出来んぞ。二月十六日、ひつ九の。カゼの巻 第八帖』
――― 関係帖 ――――
富士の巻 第十八帖
富士の巻 第二十四帖
ヒカリの巻 第三帖
春の巻 第五十八帖
――― ここから次の帖 ――――
碧玉之巻 第十五帖
五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。
――― ここから ――――
まず取り違い、勘違いされないように。
新約聖書の刻印、獣の名、その名の数字である「人間をさすものである666」と、
このひふみ神示の「六六六」は違います。
『この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。』でも無く、“人間”をさす数字ではない。また六百六十六(神示はそれぞれの霊肉の段階の示唆)でもありません。
(新約聖書の666は616であるともいわれております)
ひふみ神示の666・六六六とは世界(西洋)、日本の順序・段階の意であります(神・霊のマコトのキ<歓喜・心>が真中と成るというシクミ意でもございます)。
これもシカケの帖。
聖典には仕掛けがあります。
それにより“道理のない人”を見極めることができます。
(道理がないなら法則を理解すらできません)
こればかりが表にでてくるなら、この神示全体、各帖のつながりすらわかってないという証であります。
(ひふみ神示をよみなされ)
これには秘密のひとつが隠されてもいます。
「五六七の“代”」とは。
前の帖でわかりますが、順序があって段階がある(“代”には字の如く「時期、期間、世代、時世」といふ“段階の意”がこめられているのです)。
奇数と偶数が和し新しい奇数がうまれる。
五六七の代でありますから動き(ナルト)→ つぎの段階へ
『六六六がマコトのミロクの世』
天地人が和す。
ゆえに六六六の世において大和となる(“世”とは「世の中」を示します)。
"六"の意味は、
『神、人、開』という意です。
(他にもありますが他帖にて、カイとはこの開でもあります、そしてカイ<開>の意、奥もまたありアカ<明・と、かかって日月>もです。また完全数でありひふみが出るのでございます。六=一+二+三)
『六六六の世』であるならば、『天地人の大和の姿であるなれど』動きがないから次の段階(先)にいけない(常に弥栄し歓喜に動いているのでございます)。
つまりそのままでは動きがないから弥栄しない。
弥栄とは一つ一つ歓喜へと進みますから、
順序(ナルト、ウズ、動き)がなければ動けない。
『666となり又六六六
とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。』
この数字666とは前後の帖を見ればわかりますが世界(西も含めて)のこと。
日本を中心・真中として世界が大和しなければならない。
それにはまず立体へとマコトの真中ゝし動き幸栄え動き開く事。
日本は世界の雛形でございます。
(この“日本”という意味も勘違いなさるな)
3Sと過去巻にありましたが、これにある意味で由来します。
『日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜であるぞ。(八三六)』
御読みくださりありがとうござました。拝
――― ここまで ――――
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