はじめに(一)
ここ()はひふみ神示を知っていただく『場』でございます。
はじめに、『ひふみ神示第一巻 上つ巻 第一帖(一)』を御覧下さい。拝
上つ巻
第一帖(一)
二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあ
らはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはつきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るからみたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があ
かる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るは神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂掃除身魂結構 、六月の十日、ひつくのかみ。
これが神典『ひふみ神示』の始まりでございます。拝
当サイトを御覧になる前の心構え・下準備といたしまして、 ウィキペディアの説明を御参照下さい。
次に“ひふみ神示全文を読了(拝読・朗誦)”して下さい。
全文につきましては神典(本)、もちろんウェブから読めます。
La fin et inspection soleil ひふみ神示データー
拝読(朗誦)の仕方は神示を全部読み、今度は最後(月光之巻 第六十二帖)から逆に順に御読み下さい(上つ巻 → 月光之巻 / 月光之巻 → 上つ巻)。
ここから下述は全文を読まないならば意味がございません(ですが『マコトの十善・五つの働き』だけは人としての基礎・基本ですから御理解できるでしょう。人ならば共感性を持ち『霊肉かへりみて実践』しなけばなりません)
それでは恐縮ながら下準備が整ったと仮定しまして『はじめに(一)』を続けさせていただきます。
ひふみ神示を読むことでもわかりますが(“拝読・実践されておられないならば”驚くと存じますが)、
神とは喜び(歓喜)でございます
しかし現代は本当の心(歓喜)がなくなっているのです。
ゆえに喜び(歓喜)がないのですから、人々の心は荒(すさ)み嘘、偽(いつわ)り騙(だま)し、親殺し子殺し、自殺、戦争がはびこる世となっているのでございます。
『歓喜(よろこび)であるということは“法則”に足りているということである。』
『法則に足るということは“調和・繁栄”するということである。』
上記にございますように『法則(順序・段階)』というのは『道理』です。
(啓典の民の“十戒”もまた道理です。<神の道>)
とても重要なこと(基本、基礎、土台)なのですが、
現代では理解され難い(意味も知らず、知らぬことすら知らず肝心真中無く実践されてない)。
<ここから追記> マコトの善悪の判断基準(法、理)を知らないならば何を基準に内省、改善点を知るといふのでしょうか(拝金主義、ワレヨシを判断基準にしている、ゆえに世界は神にツバしイキ詰まり改善できず、厄人の悪循環<厄人スパイラル>となっているのです)。
傲慢(ごうまん)になりなさるなよ。現在は“善悪ない上の段階”ではなく、人殺し騙しが蔓延(はびこ)る戒律等(*土台のない人たちが作ったルールのコトではない)が必要な低い段階<ある意味泥海(どろうみ)>に我々はゐるのです(*と申しても十善とは戒律ではない)。今の世は“初歩の土台”が必要な(当たり前のマコトの十善の実践、いろは、ひふみが必要な段階)ここまでの“低いレベル”だということです。拝 <ここまで追記>
道理を守らないということは、
道理(人としての当たり前の所作・十善)に基づく『行為・行動』をしないのでありますから(カタチだけで内実がない)、
『道理のない答え』しかでません。
ゆえに道理(人としての基本)が『土台(基礎・基本)』になければ『法則(柱)』が理解できないのです(建物をイメージしてください。土台が無いと家が建たないでしょう)。
当たり前ですが『基本(基礎、土台)』がないと建(立)たず、段階に上がれないのです(一があって二があり三となる) 。
このような意味においても、
道理を守っておられない人(霊肉ともに実践してない人)は、“法則を理解さえしてない”という証(アカシ)なのであります。
これなくして『神、仏』は理解できないのです。
現代の宗教?はどうでありましょうか。
このコトからもすでに“明らか”になっているでしょう。
『本当の神』と『道理(実践)』とは“一体”なのです。
つまり道理を守らない人は、
『神を知らないということです』。
ゆえに道理を理解し実践するということは、
本当の神に近づくということなのです。
ひふみ神示、聖典を知る(治る)ということなのです。
『イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」』
<ヨハネの福音書 14:6>
世尊(ゴーダマ・ブッダ)の云われた、
『(道理に基づいて)おのれを灯明とせよ』ということであります。
道理を理解(実践)するということは神を理解することであり、『神示』を理解するということなのです。
下記は“理”であり“法則”でございます。
当たり前に行うことにより繁栄・調和(歓喜)し、逆(十悪)をすれば乱れ我々が苦しみます。
現在にあてはめてください。
“十善の逆の世”となっているではないですか(サカサマ)。
ならば嘘騙しが蔓延る(はびこる)心ない苦しみの世界となるのは当たり前でございます。
当たり前のことですがとてもとても大切なことなのです。 (人々が十善を実践しないといふことは、“霊肉ともに、苦しみを個人・国・世界でワザワザ作って周りを巻き込んでいる”というコトなのです)
ブログにも打たせていただいておりますが、マコトの神(御恩を知り感謝し、個人・国ともに当り前の十善を実践)をマツリしないといふ事は、歓喜が要らないといふコトを明らかに示してゐるのですから、感謝なく御恩知らずな人々は神の尊ひ霊肉御守護もいらないといふコトなのでございます。
よくよく知っておいていただきたく存じます(ひふみ神示を拝読し、所作を一致させ霊肉十善を実践して下さいと打たせていただいてます。下記十善の次に神示の根幹足る帖も掲載しています)。拝
――― ここから十善 ――――
不殺生(ふせっしょう)
「人」(生き物)を苦しめ殺さない(人に関しては“御五柱、御十柱”が霊肉うれしうれし備わって「人」なのでございます。「御十柱」を鏡とし「かえりみる」御柱が最低限建っている状態)。
殺すには苦しめることも含まれる (自他ともに霊肉の向上を邪魔しない)。
間接的なハタラキもそうだと知ること。
苦しめ殺されることによってどのようなツナガリが発生するだろうか。
無論、積もるツミ(積)を、ご理解くださいませ。この世では、うれしうれし御神の御恩に感謝を致し霊肉、生命の安全安心を維持して生きなければなりません。
不偸盗(ふちゅうとう)
心で思うことも含め盗まない(今の段階では邪霊集団に邪魔をされますゆえ、霊肉一体ともにといふ行為行動でございます)。
盗むような行為、行動を相手に起こさせない(“社会環境”含めて大衆の衣食住を整えていくといふことでもございます)。
不邪淫(ふじゃいん)
夫婦の営みはよいことである。それ以外から離れなさい。
また相手の苦しみの上にたつ性交から離れなさい(暴力、権力をかさとした他に対する従属強要。そのように誘導することも含まれます)。
これも“ツナガリ”を知ることである。
世の調和を乱す行為、行動でもある(日本におきましても“性を含めました人身売買”が当たり前のように蔓延っております。「大切な御柱」でございます。つまり正さないとならない、重要な御柱が建ってないといふ事です)。
不妄語(ふもうご)
他の苦しみに連なる嘘、偽り、欺きをしない。
嘘を言わないことが目的ではなく、
いうことによってどのような結果になるのかを知ることである。
霊肉うれしうれし真実(マコト)がなくなってしまう。
それによりどうなるかツナガリを知ることである。
不綺語(ふきご)
真実にそむいて、言葉巧みに偽り飾らない。
人を惑わすことは真実から遠くする行為、行動である。
行うことにより「不善」に自他ともに巻き込むことになる(歓喜から遠ざかり外れるといふ事でございます)。
だからしてはいけない。
惑わすというツナガリはどのような心の働きから知れ。
不悪口(ふあっく)
悪口を言わない。
高慢、慢心、傲慢にツナガルと知れ。
言う事によりどのようなことが起こるか。
口から出ることは、心からというツナガリにもいたる(様々な行為行動となる。他の御柱が倒れるといふ事でございます)。
不両舌(ふりょうぜつ)
仲たがいさせること(行動、行為において不善を行わないこと。人との和を育む事)
そのツナガリを知ること。
相手を苦しめ殺す行為、行動である。
今の世界はこの“口(二枚舌)”の災いにより、『心、行い』が乱れている。
仲たがいさせるような行為、行動をしない。
不貪欲(ふとんよく)
『苦しみの上にタツ欲』を貪らない。
むさぼることは、調和を乱すことである(他のものまでむさぼる、資源含めましてといふ事でございます)。
ゆえに世界で飢餓がありバランスが崩れている(「御柱」よりも「上位に奪う低い状態の我欲、身慾」がある状態といふことでございます。御神、仏、自分を裏切っている状態ともいえましょう。 そうなりますと他の土地まで自分のモノといふ流れとなり暴力や殺してまでといふ人ではない状態となりますゆえ「不毛」となりましょう。どこぞの民族、国家がこの低レベルな、イマダニ人ではない段階でございましょう)。
そのツナガリを知ることでもある。
おさえる(霊肉和する)ことにより、あらゆる意味で空腹(調和、充足、全て御神から与えられている事)をしる。
それが感謝となる。
不瞋恚(ふしんに)
怒り・憎しみ・怨(うら)みなどの憎悪の感情から離れる。
そのツナガリを見ることでもある。
相手に怒り、憎しみ、怨みを起こさせる「行動、行為」をしてはならない(その時点で自分が自分に騙されている、いまだ掃除洗濯すら終わってない状態だと知る事でしょう)。
不邪見(ふじゃけん)
己、他者に「不善(歓喜・御柱を崩す)」の行為、行動(霊肉共に)をさせるようなことから離れる。
上記の『九善』の逆をしたらどうなるのか『その行為、行動』でツナガリを知る。
一つの善が壊れることにより、他の善の柱も壊れることになる
ここから各善はお互いに関連しあっている事を知る。 そして人々生物全体に繋がり関係(調和・感謝)し合っている事をシルのでございます。
「十悪(御柱を崩す事)」をしたらどうなるか?という思惟にツナガルと知れ。
和(うれしうれし・バランス)、そして大和(全体のバランス、調和)するを知ることである。
『今の人間鬼より蛇より“邪見”ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ<日の出の巻二十帖(二三三)>』
『嘘見分ける鏡与えてあるぞ。早う改心なされ。<黄金の巻十帖(五二一)>』
*“十善(十戒)”は『セフィロトの木』であります。
――― ここから五つの働き ――――
『 ひかり教の教旨書き知らすぞ、人民その時、所に通用する様にして説いて知らせよ。
教旨
天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。 次に信者の実践のこと書き知らすぞ。
三大実践主義
弥栄実践 祓実践 (まつり)実践
大宇宙の弥栄生成化育は寸時も休むことなく進められてゐるのざぞ、弥栄が神の御意志ざぞ、神の働きざぞ、弥栄は実践ざぞ。人としては其の刹那々々に弥栄を思ひ、弥栄を実践して行かねばならんのざぞ。宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。天地(あめつち)の大祓ひと呼応して国の潔斎、人の潔斎、祓ひ清めせねばならんのざぞ、与へられた使命を果たすには潔斎せねばならんのざぞ。かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ。役員よきにして今の世に、よき様に説いて聞かして、先づ七七、四十九人、三百四十三人、二千四百〇一人の信者早うつくれよ、信者は光ぞ、それが出来たら足場出来るのざぞ。産土の神様祀りたら、信者出来たら、国魂の神様祀れよ、次に大国魂の神様祀れよ、世光来るぞ。五月十二日、ひつ九のかミ。(ア火ハの巻 第三帖)』
御読みくださりありがとうございました。拝
――― 警告と上記では短い方に補足 ――――
恐縮ですが『我』でもってこのサイトの内容を無断で使わないでいただきたい。(『我』とはワレヨシ、カネ中心の価値観)
これらを今回出すということは、
ひふみ神示が“数字の上でも神からのメッセージである”という証明であります。
この日月神示のサイトの情報は神に教えられ作成をしております。(この意も道理なく勘違いなさるなよ)
ゆえに道理に適っている。
“誠をもって”開くことを望みます。
(騙しでしようとするならばダマシしかでない。それによりどうなるか)
このサイトは難解だと思われる内容、おおよそ各巻の中心を出しております。
まずは『ひふみ神示全文』をお読みください。
その後『数字、シンボル等』に隠された奥の内容解釈を見ていただければ得心されます。
当たり前ですが、人としての基本・基礎(感謝・御恩を知る)がないならば『マコトの神』が宿れないため(人は神の入れ物でございます。御用をさせていただける。この“意味”も取り違いされぬように)に教えていただけません。(法則の楚)
ゆえに道理(心の御柱、法則)が必要なのです。(本当の古宗教はコレを知っておられた。時代とともに形骸化し“この重要性”、“意味”が失われた。ゆえに現在の宗教等はマコトではないという証明<判断基準>にもなる)
これが『鍵』です。
(ゆえに玉串となる。実際に感謝しひふみ神示を読み『道理(ミチ)』を行えば実感されます)
ここの裏も念の為(九分九分九厘悪である為)。
道理のない人(人の基本、基礎がない)がみれば取り違い、勘違いをするでしょう。
なぜならば道理のない基(モト)から見ているために、ワレヨシ、邪な答えしかでない。
ゆえにそのような人たちは落とし穴を自分で作ってしまい、さらには周りを巻き込む。
何者になることが目的ではなく、
『法則(マコト)に適し調和、繁栄をすることが目的』であると打っています。
誰でも法則に適い真摯に求めれば与えられる。
それが神示でいうところの赤子の心(まっさら、マコトの心という意)、あほになれということです。
掃除・洗濯・改心第一。
『日本の人民の身魂(みたま)が九分九分九厘まで悪になりてゐるから、外国を日本の地に致さねばならんから、日本の地には置かれんから、どんなことあっても神はもう知らんぞよ。八月十六日、一二。』
『一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ。』
九月吉祥日
――― ここまで ――――
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