極め之巻

第三帖

 わが身をすてて、三千世界に生きて下されよ、わが身をすてると申すことは我(が)をすてること、学をすてることぢや、すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ、それぞれの言葉はあれどミコトは一つぢやと申してあろうが、ミコトに生きて下されよ。言葉の裏には虫がついてゐるぞ、英語学ぶと英語の虫に、支那語学ぶと支那語の虫に犯されがちぢや。判らねばならんし、中々ながら御苦労して下されよ。大難を小難にすることは出来るのであるが無くすることは出来ん。不足申すと不足の虫が湧くぞ、怒ると怒りの虫ぞ。一生懸命、自分の信じるように、神を小さくして自分で割り切れるように、引きづり降ろして居るなれど、困ったもんぢや、長くゆったりとした気持ちで神を求めて下されよ。


――― ここから ――――


それぞれの言葉はあれどミコトは一つぢやと申してあろうが、ミコトに生きて下されよ。


世界中(霊肉)それぞれに言語(コトハ)はありますが、神の心は一つ。

神の心(歓喜)に適うように生活に取り入れて(実践)くだされよ。


歓喜となるにはどうしたらよいでしょうか。

ミコトに適えばよいのです(当サイトのはじめ(一)御覧ください)。


ゝさらに平易とすれば

多言語、民族、哺乳類等はおりますが“地球は一つ”でありおいしい水、空気を霊肉ともに吸え得れば地球に住まうこれらどの種族でもうれしうれしでございましょう。

それではおいしい水、空気を飲み吸うにはどうしたらいいのでしょうか(全体がつながりを観て大和しなくてならないのでございます)。



英語学ぶと英語の虫に、支那語学ぶと支那語の虫に犯されがちぢゃ。


ですがひふみは日本人にしか解けませぬ。

基本が日本語(大和言葉、コトハ)を基(キ)本としているからであります。

ゆえに一二三祝詞、いろは、神言等がさらに重要となる。

(奥がございますが割愛)


多言語を学ぶのはよいのでございますが、他言語を学ぶ(囚われる)と、“他の言語”を神示に置き換えてしまう事になる。

ゆえに“神示解釈等が他の虫に犯されてしまう”という意味でございます。


日本語を基に神示解釈をしてください。

ですが伝える神心は一つ。

(人としての基本、基礎足る“十善”も世界共通の概念でございましょう)



言霊にも通じることでございますゆえに重要なのです。



不足申すと不足の虫が湧くぞ、怒ると怒りの虫ぞ。


不足申すという事は“心でそれを思っている”のですから、そのような心根で解釈するならば“不足申す虫”が解釈に付いてしまう。

つまり不足を申すようなコトバが神示に出て(湧いて)しまう。

まっさら赤子の心で読み解かせていただくことができなくなる。


怒る状態で神示を解釈したならば、“怒りの虫が湧いた状態”での解釈となり、

まっさら赤子の心で読み解かせていただくことができなくなる。


このことを注意せよ。と戒めてくださっておられるのでございます。


同じように心の虫は他にもあるのでございます。

他には何でございましょうか。



裏の意味にもつながりますが、

まっさら赤子の心以外の心根でございます。


ミタマの掃除、洗濯ができてゐなひ心根では神心に適った解釈ができない(つまり教えていただけない)。

ゆえに湧いた虫(神示に不必要な情報、智や学等に捉われた心、ケガレ)を日々掃除洗濯(祓実践等)した清々しい、透き通ったあほ心でうれしうれし読んで伝えてくだされよ。

ということでございます。


わが身をすてて、三千世界に生きて下されよ、わが身をすてると申すことは我(が)をすてること、学をすてることぢや


そのことを帖冒頭で伝えてくださっておられるのでございます。


神示とは我があってもならず、我がなくてもならず、また学があってもならず、学がなくてもならずというコトでもあるのです(茲が表裏の意)。


生まれ赤子のまっさらな心、“低い段階の我”をすてて神心にとけ入り読んでくだされよ。


この事が下記にまたつながるのでございます。


それぞれの言葉はあれどミコトは一つぢやと申してあろうが、ミコトに生きて下されよ。


言葉はそれぞれありますが、ミコトは一つであるからどの国もミコトに生きればよい。

神の心は一つなのです。

(『ミコトは神の心であるぞ。喜びであるぞ。ミコトに生きよと申してあらう。黒鉄の巻 第四帖 六二二』)


このように、なにげない帖であってもたくさんの事を伝えてくださっているのでございます。


ですがミコトを聞く(開く)にはミタマを磨かねばならないのでございます(下記も当帖裏の意味)、またミミ(ハラ)で知らないとなりません。


くどくど恐縮でございますが“口、心、行”が一致せず十善足る基本がなく(ならば日々“五つの働き”が発揮せず)、また“祓実践、マツリ実践、弥栄実践”をしていない人と、神心を忠実真摯に実践している方とでは段階が雲泥なのでございます


これにミタマの段階も加味され解釈もコトナル。

ひふみ神示を読む人、“読んで読まない人”、ひふみの食べ方・礼拝の仕方などできる人とできない人とにも分けられる

ミコトに、より近づくには日々慢心せず神に縋り付きマコト(霊肉和合)の実践をしていかなければならないのです。


極め之巻 第三帖でございますゆえに恐縮ですがこのように打たせていただきました。

ひふみ神示を声を出しお読みになることがまずは肝心要でございます。


日々初心。



お読みくださりありがとうございました。



――― 関係帖 ――――


極め之巻 第四帖

極め之巻 第七帖

極め之巻 第十一帖

黒鉄の巻 第四帖(六二二)

アメの巻 第八帖(三四二)

月光の巻 第五十一帖(八三八)

キの巻 第七帖(二六四)

一八十の巻 第七帖(二四三)

日月の巻 第十七帖 (一九〇)

キの巻 第一六帖(二七三)



――― ここから次の帖 ――――


極め之巻 第六帖

和すには5と5でなくてはならんが、陽が中、陰が外であるぞ、天が主で地が従ぞ、男が上、女が下、これが正しき和ぞ、さかさまならん、これが公平と申すものぢや、陰と陰と、陽と陽と和しても陰ぢや、陽と陰と和して始めて新しき陽が生れる、陽が本質的なもの、この和し方がはらひきよめ


――― ここから ――――


数霊盤を参照あれ

和すとは“和して”一つにするという意でもあります。


『男が上、女が下』とはひとつの順序、段階。

この帖も巻全体にかかっています。

(下が不満ならばこの意を。太陽があり地球があるから木<人>がそだつ、足り足るお互いが必要)


さらにこれも基本。

男が左(火足り)女が右(水極り)。


時計回り 。

(下から見れば逆まわり。立体)

ここでは陽陰が順序、段階を持ちまざりにまざる。

(どっちがえらい、えらくないという低レベルの問題ではありません。性差があるから結合し子が産まれる)


『陽と陰』と和して始めて『新しき陽』が生まれる。

数字(数霊)でもわかることですが、

陽とは中心であり、陰とは外であることからもわかります。


つまり霊は中心であり、肉は外であり、それが和し、新しい霊が生まれる。

霊が生まれるがゆえに肉が生まれる。これが裏の意。


霊(つながりから神…→点の連なり)なくしては肉はない。

(肉なくてもこの世ではいけない。ゆえに霊と肉が法則に適い調和・繁栄と意たる)

という立体的意味が書いてあります。


有名な『霊主体従』です。




物事には順序がある。

ゆえに法則に足り足る。ゆえに歓喜がある。

これが道理であります。


神示を読みハラに。

改心・改善・掃除・洗濯第一。



――― ここから次の帖 ――――


極め之巻 第十四帖

 正しくないものが正しい方に従はねばならんと人民申して御座るなれど、正とか不正とか申す平面的衣を早うぬいで下されよ。マコトを衣として下されよ、マコトを衣にするには心がマコトとなりなりて、マコトの肉体とならねばならん、マコトとは数(かず)ぢや、言(こと)ぢや、色ぢや、その配列、順序、法則ぞ。


――― ここから ――――


平面的な衣とは“立体”になっていないということです。

立体になっていないとは“(神)”が入ってない衣。

『肉に囚われた衣』という意であります。


肉のみで<霊・神>がないと思っている状態に囚われるということは、『配列・順序・法則』を満たしていないということであります。


心の土台なく霊なく肉のみなら、せつな的となり、今さえよければよいと勘違いしてしまう(さらに十悪を起こし起こさせる世なのです)。

ならば今の時代が見えてきます。

霊があり肉がある。その霊の奥には神がおられるから歓喜(喜び)があるのです。

マコト、マ(霊)・コト(肉)。


法則(歓喜・弥栄)につきましてはこちら(はじめに)をご覧ください。



物事には順序・段階がございます。

まずは上のものがしないことには、よくなるものもよくなりません。

まずは神示をよみ、道理を実践し『土台(躾・人としての基礎)』をカタメてから初めて和することができるのです。



ゆえにうれしうれしで掃除洗濯第一。



――― ここから補足 ――――


戒律・法律をいくら雁字搦め(がんじがらめ)にいたしましても、戒律を作る人に“道理”がないならば人々が苦しむだけでございます。


なぜならば、肉(欲・われよし・法則なし)に囚われた都合のよい戒律・法律を作るのでありますから。


ゆえに“枝葉”が問題ではなく、

心に問題(心無い世ならさらに荒みます)がありますから戒律・法律を必要としてるのであります。

ゆえに戒律があるうちは次元が低いと申すのでございます。


上の人たちも自分からつながりを考える(思惟)こともできない社会ということになります。


戒律を作る者の心が“悪”になっておられるならば、どうなるでしょうか。

時代、国、社会によっては“正しいと言われること”が道理とは逆であったりもします。


しかも外道もはびこるこの今の世。


そうなるならば、

人々を苦しめる“悪法”がはびこることになるのです。

今もって時代を省みず他に依存する傾向があります。

またそのように人々の心が作られている。

一人一人の自覚・行動が必要。


ゆえに問題は『心』でありますと、

この帖も含め書いてあるのでございます。


――― ここまで ――――