天国と地獄について


今回は二冊紹介。

『日月神示 死者の書 中矢伸一著』

『天界と地獄 スウェーデンボルグ』


『地獄について』詳しい内容は次回。


下記の“あまつふみ(ケモノ(地獄)の相)”と十善は、人々の“地獄の相”を判断するものさしとなります。


このようなヒトビトが我々を苦しめているのであります。

つまり地獄とはある意味においてヒトビトが作っているということです。


これを参考とし改心の材料としていただければ幸い。

非常に重要です。



<引用ここから>

あまつふみ”より

1ず第一に、彼らは絶対自己中心主義者である。

徹底した利欲主義者であり、自己満足主義者であり、徹底した欲望の権化である。


2 そして第二に、彼らは絶対無信仰者である。

たとえ口に神を唱えることがあろうとも、それは単に己の利欲にもとづくところの方便にしか過ぎない。彼らにとってすべての対象は、己の欲を満たすための方便である。


3 第三に彼らには、感謝、恭敬(きょうけい:心から敬うこと)、反省、雅情などが少しもない。

一切の道徳観や慈悲の念がない。しかし彼らはみな、悪知恵には長けている。

概念をもてあそび、理論を逞しくし、己を棚に上げて他を責めることには甚だ巧妙である。


4第四に、彼らは暴力をもって生活心情としている。


また彼らには宗教はない。

彼らは物欲そのものの権化であり、自己満足の表現そのものである。よって、かえって盛んに宗教を口にする。

しかしそれはことごとくが自己満足に基礎をおくものである。


今日の宗教には、この世界と通じているところがたくさんあるようだ。

神仏の名を語り、己の欲得のために宗教を説く輩は、死後こうした世界に堕ち、未来永劫にわたってくるしまなければならない。


また、信仰心もなく、感謝、反省、慎み、敬いといった心情もなく、ただひたすら己の利益のことだけを考え、己のために生きることしか頭にない人というのも、最近では少なくない。


この世界にはこうした種類の人間も、多く堕ちていることだろう。

「日月神示 死者の書 中矢伸一著より」

<引用ここまで>



あてはまる方がおれますか?


次、『天国と地獄』。

聖書の引用があります。

知らない方はとっつきにくいと思いますが、このひふみ神示は聖書とも関係がありますゆえに、長いですが読んでいただきたい。



<引用ここから>

スウェーデンボルグ『天界と地獄』より

第三章21


聖典の多くの個所で、人間は自分の行いとわざに応じて裁かれ、報いられるということが述べられている。

ここでそのいくつかを引用しておきたい。


人の子は、父の栄光に輝いて天使たちを共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

(「マタイによる福音書:1627節」


主に結ばれて死ぬ人は幸いである……。

霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らかを得る。その行いが報われるかれである。」

(「ヨハネの黙示録」1413節)

わたしは、あながたが行ったことに応じて、一人一人に報いよう。

(「ヨハネの黙示録」223節)


わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。

幾つかの書物が開かれた……。

死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

海は、その中にいた死者を外に出した。

死と冥府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

(「ヨハネの黙示録」2012-13節)


見よ、わたしはすぐ来る。

わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

(「ヨハネの黙示録」2212節)


わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、……賢い人に似ている。

……わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、……愚かな人に似ている。

(「マタイによる福音書」724節)


わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。

わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。


そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。

『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

(「マタイによる福音書」721-23節)


そのとき、あなたがたは、「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」と言いだすだろう。

しかし主人は、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言うだろう。

(「ルカによる福音書」1326-27節)


わたしは、彼らの行いとその手の業に応じて彼らに報いる。

(「エレミヤ書」2514節)


主の謀は偉大であり、御業は力強い。

あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。

(「エレミヤ書」3219節)


わたしは、彼らを行いに従って罰し、悪業に従って報いる。

(「ホセア書」49節)


主は……わたしたちの歩んだ道と行った業に従って、わたしたちを扱う……。

(「ゼカリヤ書」16節)


最後の審判の予告において、主はただわざのみを願慮する。

主は「マタイによる福音書」で、善いわざを行ってきた者は永遠の生命に入り、悪いわざを行ってきた者は滅びに入るであろう、と教えている2532-46節)。



これ以外にも、人間の救済と断罪に関する多くの節の中で、同じ見解が示されている。

 わざと行ないは、人間の外的な生命であって、

人間の内的な生命の性質は、外的な生命をとおして見えるようになることは明らかである。


(中略)


第V章 22節 行いとわざは外見よりも内的なありかたが重要


 しかし、行いとわざは、おもてに現れた形だけを意味するのではなく、その内的なありかたも意味している。


どのような行いやわざも、人間の意図と思考に由来するということは、誰もが実際によく心得ていることである。

もしそこから出てきたのでなければ、それは機会や模型の運動のようなものでしかないことになる。

だから、その内実から見れば、行いやわざは、その魂と生命を意図と思考とに有する、ひとつの結果にすぎない。

したがって行いやわざは、外面的な形を取った意図と思考なのである。


 それゆえ、行いやわざを生みだすと思考が、行いやわざの性質を決定するということになる。

思考と意図が善ければ、行いとわざも善く、思考と意図が悪い場合には、行いとわざも悪い。

たとえこの二つの場合の外見がにていてもそうである。

 千人もの人がおなじように振舞うことがあるかもしれない。

つまり、外見からはその人々を区別することがほとんどできないほど、似たように振舞うかもしれない。

しかしどの行いも、その内実から見れば異なっている。

なぜなら、それぞれが違う意図から出ているからである。


 同胞に対する正直で正しい振舞いを例に挙げてみよう。


ある人は、自分の信望を得るために、正直で正しい人間に見られるよう振舞うことができる。

別な人は、現世や自分の利益のために同じ事をするであろうし、

三番目の人は報酬や功績を求めて、

四番目の人は友情を保つために、

五番目の人は法律が怖くて、

つまり世評や地位の失墜を恐れてそのように振舞うのであろう。


六番目の人は、相手が悪人であってもこの相手を味方に引き込むために、

七番目の人はあざむくためにそうするであろう。

またほかの人びとはほかのさまざまな動機からそうするであろう。


同胞に対して正直に正しく振舞うのは善いことであるから、これらの人々の行いはどれも外見は善く見える。


しかしそこには、依然として善が欠けており、そうである以上、その行いは世俗愛から為されるからである。

自分にかしずかなければ軽んじて解雇してしまうような主人に仕える奴隷のように、正直と正義が自己愛と世俗愛に使えているのである。



正直で正しいものへの愛から行動する人びとは、同胞にたいして正直に正しく振舞うが、これも外見は同じようにみえる。

ある人は、自分の信仰における真理に基づいて、つまり、そうするよう聖言の中で命じられてるという理由で、それに従って行動する。


ある人は、それは宗教心の問題であるからと、自分の信仰における善、つまり良心に基づいて行動する。


ある人は、他人に対して善であることを考慮にいれなければならないという理由で、隣人愛の善に基づいて行動する。


ある人は、善は善自体のために為されることが肝要であるという理由から、主に対する愛の善に基づいて行動する。


正直で正しい人々が正直と正義を愛するのは、これらが主に由来し、主から発出する神的なものがこれらに内在し、本質的に神的なものだからである。


 このような人々の行いとわざは、内的に善であり、同じく外的にも善である。

なぜなら既に述べたように、行いとわざの性質全体は、その源泉である思考と意図の性質によって決まるからである。


思考と意図がなければ、それは行いでもわざでもなく、魂を欠いたたんなる運動にすぎない。


以上の考察から、聖言における「わざ」や「行い」が何を意味しているかを結論づけることができる。

<引用ここまで>



いろいろな聖典にある重要な文章であります。

(日月神示にもこの表現があります)


人々はこの“意味”がわかっておられない。

外に現れる行為が同じでも、“内的なものが違うなら”という意味であります。


内的なものが地位やら名誉、金やらその場の流れで、善い行為、行動をすることがありますが、それは内的な“善から基づいた光”から為された行為・行動ではありません。


つまり“内的な善”と“行為、行動で現す善”とが一体になることが真(マコト・祈り)であることがここからもわかります。


これが最も善良であり至高であります。


裏でいけば、

「外的な行為」が“善”として現れても、次やその次の“外的な行為”は「内的善」でないならどうなるか?


という意味であります。

現代の政治にもいえることでありますが、ミセカケで中身がすかすかであり、外的にも善にみえる行為・行動もその実、「道から外れて(的外れ)」ということであります。


また道から外れている(行為、行動)ということは内的な善から行われたコトではないのです(つまりその“行為、行動”から内実が分かるのです)。


その行為・行動からも見え透けるのであります。

ゆえに現在の政策等は国民にとって苦しめ殺すことに繋がるだけで「善の働きをしていない。」

それは「内的不善の働き」から起こるからであります。


この上記内容は“目に見える道理(思惟すればつながり解るという意味)”でありますが、霊的な働きとしては次章に書いております、


霊的な状態においては「外的な働き」が停止する。”

(この『天界と地獄』では第二段階と記してある)

という内容。


それにより自己が隠していたことがすべて明らかになります。

だから悪いことはできないのです。


詳しくは下記をご覧ください。


<引用ここから>

第X章 45節 善霊と悪霊のとの差異


 しかしこのような人びとは、その性質をさまざまな方法で善霊たちから吟味される。

この第一の状態では、悪人も善人も同じように真理を語り、善を行うからである。

前述したように、確かに、彼らも外面でも善人とおなじように道徳的生活をおくったのである。

すなわち彼らは、政府の統治下で法律を守って生き、正しくて正直だという評判を得、恩恵に浴し、こうして名誉ある地位へ昇りつめて財を築いたのである。


 しかし、おもに次の点で悪霊は注意を払うが、内面的なこと、つまり教会や天界の真理と善について言われたことにはほとんど注意も向けないし、喜びも感じない。


彼らはまた以下の点でも区別される。

すなわち、彼らは幾度も一定の方向に向け、そしてジブンタチだけになると、その方向に通じている道を進んでいく、という点である。


このように向きと進路から、彼らを導く愛がどんなものかが分かるのである。


この世から到着する霊たちはみな、天界のどれかの社会か、地獄のどれかの社会と結びついている。


だがそれは、彼らの内部に関してのことにすぎない。

彼らが外部のなかにいるかぎり、内部は誰にも見えない。それは、外部が内部を覆い隠しており、しかも内部に悪を宿す者たちの場合は、特にそれがひどいからである。


しかしそののち、彼らが第二の状態に入ると、その内部が明らかになる。

そのとき彼らの内部が開かれ、外部は眠り込んでしまうからである。



第[章 66節 「信仰のみ」によって天界に入ることはできない


私は以上のことについて、時おり天使たちと話し、次のように告げた。


『この世で悪い生活を送っている人びとの多くは、他人と天界や永世について話すときは、天界へはただ慈悲によって入らせてもらえるにすぎないという考えしか述べません。

このことを特に信じているのは、信仰を救いの手段としている人びとです。

というのも、このような人びとは、その宗教の原則から、

生命と生命の源泉である愛の行いや、また主が人間に天界を植えつけ天界の喜びを授けようとして用いる手段には目もくれないからです。

このように彼らは、現実的な手段をことごとく拒むので、自分たちの原則の必然的な帰結として次のように結論づけます。

つまり、人間が天界へ入るのはもっぱら慈悲によっており、御子の執り成しによって父なる神が慈悲の心を動かされる、と


以上のことに対し、天使たちはこう言った。


 『私たちは知っていますが、そのような教理は、人間は信仰のみによって救われるという仮定から必然的に生じてくるものです。

しかもこの教理は、他の教理全体の要ではあっても、真理ではありませんから、天界からの先はそこへすこしも射し込みません。

これが現代の教会に無知がはびこる原因です。

無知というのは、主・天界・死後の生命・天界の喜び・愛や仁愛の本質などについての無知です。

また一般的には、善と、善の真理との結びつきについて、人間の生命について―――その生命はどこから来て、どんな性質を持つかについて―――の無知です。

人間の生命を構成するのは、思考では意図と意図から出ている行為です。

生命が思考から生ずるのは、思考が意図から出てくる場合にかぎられます』


 天使たちが心を痛めていたのは、これらの人びとには「信仰のみ」は不可能であることが分かっていないということである。


というのも、信仰はその源泉である愛を欠けばたんなる知識にすぎず、また場合によっては、信仰に似た一種の思い込みにすぎないからである。


このような思い込みは人間の生命の内にはなく、その外にある。


それが本人の愛と結びつかなければ、本人から分離しているからである。


 天使たちはさらにこう語った。

 『人間の救いの本質的な手段に関して、

このような原則に固執する人びとは、無条件的な慈悲を信じないわけにはゆきません。

彼らは、悪い生活を送る者でも他の者と同じように考えたり確信したりできるという理由で、分離した信仰が人間の生命を構築しないことを、彼らなりに自然の光や眼で見る経験によって感じとっています。

それでも、死にぎわに執り成しや、執り成しによってあたえられる慈悲について自信を持って語れば、悪人も善人と同じように救われると信仰が生まれるのです』


 そして天使たちは明言した。


 『信頼とか信任といった、どんなすぐれた言葉を使って生前、信仰を表明したとしても、邪悪な生活を送った人びとが無条件的な慈悲によって天界に迎えられたのを、私たちはこれまで見たことがありません

<引用ここまで>



目をとじて『自分の心』をみてください。

人(生き物)が苦しむのを見てよろこぶ自分がおられませんか?

ほぼ今の人達はそのような悪芽(傾向)が心にあるのです。

さまざまな社会の要因によるものであり、サクように助長しているのです。

人の痛み、苦しみをよろこび(笑う等)に変換してしまうように“洗脳”されている。

(なぜそうなっているのでしょうか?)


それが『魔』なのです。

目には見えずカタチもないが確かにある。

これがヒトビトをコントロールする。

これを無くさないかぎり人の苦しみをさらに喜びと勘違いしてしまうようになってしまいます。

ならばどうなりますでしょうか。




――― ここまで ――――

お読みくださりありがとうございました。