祈りついて
<引用ここから>
6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
<引用ここまで>
――― ここから ――――
・祈り地獄について
当たり前に我々は“祈り”と云っておりますが、
“祈り”とは何でしょうか?
『人に見せるという心の現われというのは、
その祈っている姿を見せたいのであり、
真に祈っているのでない。』
真ではない人々に褒められるために“祈り”をしているのでしょうか?
(分かっておられると存じますが“御用”とは見せるためのものではなく響かせるための祈りでございます。弥栄ゆえに鳴り成る)
*ここに真の価値観がございます。
人の価値観とは“偽、虚”に満ちております。
心なき物質中心(ワレヨシ)の世となっている。
そのような真ではない人々から褒められたところでなんになりましょうか。
マコトの神は真の祈りを見ておられる。
ゆえに報いてくださるのであります。(ここも取り違いをなさるな)
人に見せるために、褒められるために祈りをしているのではございません。
そして行為、行動がともなってはじめて“真の祈り”となります。
これに足りてないならば、“祈り地獄”となります。
いくら祈ったところで“真”がないゆえに“善”とならず真の神に届くことはございません。
表面的なカタチではなく“内面の心のあり方”が大切なのでございます。
ここに今の人々は気付かれない。
ゆえに誠の祈り、真実の祈りを知らないのでございます。
(真剣にこの重要さを“ハラ”では分かっておられない。ゆえに行為、行動が伴われない)
聖書より引用させていただきました。
・マコトの祈りとは霊肉ゝすることである
これまでの世の『ただ祈る』だけで世はよくなっただろうか。
これこそが魔のワナである。
力がともなわないのである。
内省、改心をほつこんからし、改善をしないならば、
Wいったい何を祈るというのだろうか。”
口、心、行を一致させゝして、はじめてチカラとなる。
それには内省(かえりみる、はじる、くゆる、おそる、さとる)をする土台(その働きを正常に動かす<判断する>下地)がいるのです。
それがW十善”でございます。
(十善を行えば我々が調和、繁栄をし、逆を行えば滅びるという法則)
今の世の低い段階で善悪を知る事もなく、判別することできない状態でW何を改心し祈る”というのか。
人々は善悪を知らず人の苦しみを快楽に変換している心の有様なのです。
そのような邪な心で一体何を祈ろうというのですか。
ゆえに心からのマコトの改心なきところに“行動としてのチカラ”が現れない。(本当の内実が大切)
カタチだけでなくそこにゝ(マコトが入るところに)するところにマコトのチカラが現れるのです。
ゆえに行為、行動となりチカラが現れる。
(肉体を使って動くには心等が想わないと動かない)
これが祈りなのであります。
もう一度問います。
今の人たちがいふ祈りとやらで世がこれまで変わったのでしょうか?
カタチだけの濁りきった“霊肉ゝ”ない祈りでは、チカラ(内実)なく“行動、実践することができなくなり”麻痺するだけとナリ“魔の思うツボ”なのであります。
(“事”が起こってもこのように洗脳をされ『内実がなくカタチだけ祈るだけで、何も行動しない』のですから、無思考、無抵抗な権力者にとって都合のよいカモになるのです。そうなれば我々が苦しむのです)
ここに開きました、ゆえに『本当の祈り』を知らなければなりません。
ひふみ神示を声を出しお読みください(拝読)。
祝詞を唱(十七)えください。
ひふみの食べ方をしてください。
全てのつながりに感謝し“念じつつ改善(三大実践)”をしてください。
世の現状を知り知らせください。
弥栄ましませ
お読みくださりありがとうございました。
――― ここから関係帖 ――――
日の出の巻
第二十三帖 (二三六)
此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ。人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ、マアカタの御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ。此の巻、日出之巻として纒めて役員に読ませて一二三として皆に知らせて呉れよ、神急ぐぞ。十二月二十九日、ひつ九のか三。
黄金(コガネ)の巻
第百帖(六一一)
真理を理解して居れば心配いらん。失敗も財産ぞ。真剣で求めると真剣さずかるぞ。求めるとは祈ること。よく祈るものはよく与へられる。日々の祈りは行であるぞ。百年祈りつづけても祈りだけでは何もならん。それは祈り地獄ぢや。祈り地獄多いのう。肉体人は肉体の行せねばならん。日々の祈り結構いたしくれよ。次の祈りは省みることぞ。いくら祈り行じても自分省みねば、千年行じても何もならん道理ぢや。同じ山に登つたり降つたり、御苦労のこと、馬鹿の散歩と申すもの。悔いあらためよと申してあらう。省みて行ずるその祈り弥栄えるぞ。平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。ヽに到るぞ。立体に入るとは誠の理解生活に入ることぞ。無限に解け入ることぞ。イワトあけなば二二輝くぞ。弥栄々々。(一月十八日)
――― ここまで ――――

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