地獄について


黄金の巻 第二十六帖(五三七)

 与へてあるのに何故手出さぬ。よりよき教に変るのは宗祖のよろこぶこと位判るであらう。うまいこと申して人集めると、うまいこと申して人が去るのであるぞ。二四(ニシ)と一ケ四(ヒガシ)に宮建てよ。建てる時近づいたぞ。間に合ふ守護神九分通り悪になつてゐるぞ。経には差別あるぞ。緯は無差別ぞ。この道理判らねば一列一平とならん。金欲しい者には金もうけさしてやれよ。欲しいもの与へてやれよ。人間心、神心、逆様ぢや。与へることは戴くこと。まだ判らんか。皆何も天国に行くやうになつてゐるではないか。この世でも天国、あの世でも天国、目出度いなあ。地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくつて地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。人間の力だけでは、これからは何も出来ん。アカの世からキの世になるぞ。世は、七度の大変りと知らしてあらう。二(ツギ)の世はキの世。口静かせよ。かのととり。一二十


――― ここから ――――


地獄とは何かを考えていただきたい。

人とは若いうちは、このような話に関心が少ないのですが、(心霊現象等には興味がありますが…)肉体が老いるに従い何かと興味を持ちます。


ヒトの肉体はやがて老い死にます。


『あなたはいったいどこからきたのか。

生まれる前の記憶がおありですか。

なぜ今、自分というものを想い、カタチ作っているのか。』


過去もわからず未来も自分もわからないのが人なのです。

なにも知らないのがヒトであります。



はじめる前に神示についての注意点を。

この帖もそうですがひふみ神示は各巻により、時間軸・状態の変化があります。


ゆえに一つの巻の内容が次の巻の内容と段階が異なる場合がある。


ある時代ではウェブがなく、ある時代にはウェブがある。

ならば『その段階の内容も変わる』という具合に。

(戦後パソコンができ、ウェブで世界中つながれることは誰も想像しなかったでしょう)


ここからもわかる様に、『低い段階からは次の段階をほとんど理解できない』のです。


ここをキッチリ分けないことには何が書いてあるのかがわからなくなります。


それでは本題に戻ります。

地獄とは本来ないのですが人がわざわざ作っていることがわかります。

またヒトとは霊があり肉があることすら忘れ自分達が一番偉いと錯覚をしたがる。


この錯覚が他の痛みすら感じ得ない鈍感さを取得するのではないでしょうか。


この写真をごらんください。



このようなことが日常茶飯事で行われているのです。

釜茹、灼熱、針地獄等のイメージがありますが、

この写真を人間に置き換えてください。


ならばこの写真が物語ることはなんでしょうか。

(動物達も人間と同じように会話をするのです)


つまり人がわざわざ地獄を作り出している。


これで地獄というものが『何か』目に見えておわかりでしょうか。



人間についても途上国を中心に武器が売られ戦争を起こし悪魔の戦士をわざわざ作り殺し合いをさせております。

(兵隊の方も普通の人だったのですから帰還後、精神、心に深い傷を負ってしまう。人が本来もっている喜びとは逆の行いをさせ、現在どのような問題が起こっているのか)


この世界そのものに地獄があり、人の心が地獄を作り出しているということがここからでもわかるでしょう。

これに日本も加担しているのです。


ゆえに苦しみをわざわざ作る原因は『一人一人の心に』あるのです。



神示の地獄について移ります。


地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。


この意味は下記のエマニュエル・スウェーデンボルグの内容からも見えてくると思います。


この世界は喜びの世界であり、

楽しむため、より調和し喜び楽しむため進化し弥栄するために生まれてきたのですが、肉に囚われるあまりに、感謝、順序を忘れ、多くの善良な人々を巻き込み、このような苦しみの世界にわざわざしているのです。


つまり人の心に歓喜(神)がないことが問題なのです。

元々、霊があり肉があることで人であるのに、肉体のみが人であると慢心し勘違いしているコトでバランスを欠いている。


このことは“数霊からもわかるように天が真中にないと和することができない。



それでは『私は霊界を見た エマニュエル・スウェーデンボルグ』から引用を。


<引用ここから>

169

つまり宗教の説く所は、その宗教の教義に合った正しい生涯を送れば死後その報酬として幸福な世界に入ることができる反面、その宗教の教義に合わない誤った生活を送れば、その罰として地獄に入れられ、永遠の罰を受けることになるというものだ。

しかし、霊界で霊たちが幸福な世界に入るのも、また逆に地獄界に入るのも別に人間のときの生涯の報酬や罰として入るのではない。

それは人間のときの生涯において彼の霊的な内心が霊界のどの世界にもっともよく対応すべきものになっていたかということにより、死後の彼の霊自身が自分の意思によって、自分の世界を自由に選択するのである。

<引用ここまで>


この箇所は勘違いならさらないように。

戒律ではなく、行為、行動の結果。

内的あり方だということです。

ゆえに心に対応した世界がある。

(苦しみの多い世界ならばそれをより受ける世界である。この世界においてもよくしていけば苦しみを受けることはよりなくなる)


生前の行為、行動によりその世界が決まる。


肉のみで霊を信じず順序を知らず、利欲のみならばその望む世界へと対応する。

ということであります。


逆に行為、行動が道理(法則)に適っているならば、天の世界へ対応する。

(歓喜に適う内面のあり方)

人はそれぞれの価値観でコミュニティーを形成するようなものと思っていただければよい。

ミクシィ(ウェブにて検索を)においても同じような価値観の人たちが集まっているように、人とは地域で集いを作るのです。

(ウェブは心の世界ですからわかりやすく勉強になります)



次は地獄の有様について。

本人たちにとってはそこが居心地がいいのでしょう。

下記をお読みになり、この世界にいきたくないのならば、地獄の価値観に合わないのではないでしょうか。


この世にも同じようなことが日常茶飯事に行われております。

ならば心がそのようなあり方であるということです。


<引用ここから>

地獄界の様相

この霊たちの姿、形、顔つきは、さっきの話で記したようにいずれも醜怪をきわめ、とても同じ霊とは思えないものであった。


ある者の顔は黒色で醜く、またある者は顔一面に汚いアバタが吹き出しており、ある者は恐ろしげな歯だけをむき出している……といったふうだった。


この世界にもやはり、霊たちの住居や町、樹木等々……霊界にあるものは全てあるようだったが、それらの物も正視できないほど怪奇な姿をしており、また世界全体に鼻をつまむ気持の悪い異臭がただよっていた。


 私はこの世界を、さっきの小さな明かり一つを頼りにそのほうへ向かって歩いていった。

この世界の様子はどこまでいっても同じように君の悪いものばかりだった。

ある街角のような所へ出たとき、突然一人の霊(凶霊)が飛び出してきた。

彼は何かわからぬことを大声で口走っている。

すると彼を追いかけるように他の凶霊が一人、飛び出してきてこれも同じようにわめいた。

私が驚いて見ている間もなく、町のあちこちから、いずれも醜怪な顔つきの姿の凶霊たちが何百、何千と集まってきた。

彼らはいずれも、その醜い顔つきを一そう醜くゆがめて大声で何かを口走り、ののしり合っている。

私には、彼らの口走っていることの意味がわからなかった。

しかし、彼らの言葉の底にあるのは全てが怒り、憎しみ、報仇の念、虚偽といったものばかりであり、その口調もとても聞くにたえないものであることが、私の全身をぞっとする思いで凍りつけてしまった。


 だが、つづいて私の眼の前で起こった事件は、さらに一そう私を耐えがたい気持ちにさせるに十分だった。

彼らの全員が、一番初めに街角へ飛び出してきた凶霊に打ってかかった。

ある者は彼をたたき、ある者は石をぶつけ、ある者はこずき、また眼や歯に棒切れや指を突っ込んで彼をいじめる者さえあった。

彼の苦痛の叫びと瀕死の表情は私の心臓を突き通す痛みを感じさせた。

しかし、大勢の凶霊たちには、これはかえって彼らをより一そうかりたてるだけで彼に対する残虐な行為はそのたびによりひどさを加えていった。


 私は、あまりの惨状に眼をおおいながら、そこを去って、また小さな明かりのほうへ向けて歩き出した。しかし、いくらも行かないうち、そこでもおなじような事件がおきていた。私は落着いて、この世界全体を見渡した。


するとそこに私が見たものは、この広大な世界のいたる所で、同じようなことが何千何万とおきているのが見えてきたのだ。

私は、これが地獄の責め苦というものなのだと、このときになって初めて解った。


 しばらく歩いていくと私は、また階段のようなものの所へ出た。この醜い世界に耐えられない思いのしていた私は、この世界を逃れるため急いで、その階段を下っていった。

だが、そこに見たものは、さっきの世界よりなお一そう醜怪さに満ちた世界で、私はほとんど気絶せんばかりの気持ちになった。


 凶霊たちの顔つき、姿、形もさらに醜く恐ろしいものだ、また、ここで見る一切のものは、これに呼応するように、さっきの世界よりひどい怪奇さ、醜さを見せ、鼻をつく悪臭と汚れは、またなおさらひどいものであった。


(中略)


 地獄の世界も霊界と同じように三つの世界に分かれている。

そして、この三つの世界は上から見ると底なしの沼のような黒い霧の中にあり、下へ行くほど凶悪な霊の住む恐ろしい世界になる。

この一番下の世界は、まさに宗教などの説く仮空の地獄と同じような恐ろしさに満ちているのだといってよいだろう。


 地獄と一口にいっても、そこには一つとして同じものはない。

全ての世界には千差万別といった違いがあり、共通していることは、その世界がいずれも醜悪さに満ち、凶悪な霊たちの住む世界だということ、この世界では、つねに憎悪、軽べつ、報仇といった気持ちと争いに満ちているということだ。


 私の見た地獄にも色々あった。ある地獄では汚穢と糞土のみがあり、また淫房だけの地獄もあり、火事の焼け残りのような印象を与える地獄もあった。

恐ろしげに茂った森林のような地獄では凶霊たちが、その森林の中を猛獣のような姿でうろつき回っていたりした……。


 また地獄で共通した特徴は、彼らが如何に凶悪さに満ち、凶悪な行動を好む者でも、全て、どこか生気に欠け死骸のような“死”の印象を強く与えることである。

これは彼らが、霊界の真の生命の根源である霊界の太陽につながりを持っていないためにほかならない。


(中略)


165

―――関係があるのかなどといったものではない。人間の時の生涯がそのまま死後、彼が永遠の生を送るべき世界をほとんどきめてしまうのだ。


(中略)


要するに霊的な霊流の窓の開け具合が彼の住む死後の世界をきめるのであるが、その窓の開け具合は人間だったときの生涯においてどれだけ霊的な心を開いたかということの結果なのだ。


霊的に心の窓が開けた生涯とは簡単にいうと霊界の秩序を守り、これを素直に従った生涯を送るということである。


そして霊界の秩序は人間にも素直な心さえあれば、その存在を感ずることも、その姿をもっと具体的に知性によって知ることも全く不可能なものではない。


宗教などの説く教義は、その狭義が真正なものであれば、これにしたがうことは多くの場合、霊的な心の窓を開くのに役立つ。しかし、単にそれだけで心の窓が開かれるものではなく、もっと根本的なことは、何度も私がいった「直ぐなる心」なのだ。


 また表面的外面的な知識なども霊としての心の窓を開くものとも限らないし、多くの場合は逆に窓を閉じることにすらなる。

私は霊界で世間にいたとき人々に学者、知者としてあがめられた多くの人々が、霊的な理性においては、これらの人々より知識などのなかった人々よりはるかに劣る霊として生きているのに何度もぶつかってきた。

彼らは知識や学問を霊的な心の窓を開くための手段として利用せず、逆にこれが彼らの「直ぐなる心」を失わせたことの結果なのだ。

<引用ここまで>


一人一人の心から地獄を無くすことが肝心要。


お読みくださりありがとうございました。



――― ここまで ――――