ハルナの御用


検索で上位にひふみ神示の御批判内容(?)がございまして拝見させていただきました。拝
その内容について影響されている人もなにやらおられるご様子(はたして神示をキチンと読まれたのでしょうか)。

1998 年頃に作成されたもののようでございます。

(どのようなものか知らなければ初歩的な取違い勘違いから生じた内容でございますので御覧くださらなくてもよい。逆にこれを利用し、知ったかで周りを惑わすスコタンもいる始末)


内容的に下記を御覧下されば得心なさると存じますが、初歩的な思い込みから始まり、一方的に岡本天明様・岡本三典様を妄想家などと貶め(その箇所は省いております) 、神示を信奉されておられる方々を侮辱した内容もございます。
このような事はよくない事と存じます。
結果、聖典等をこのような不毛な事に利用しているのです。

(また我々とは何も知らないと云ふ事を知らなくてはなりません。ただただ与えられ教えていただいているのでございます。拝)


このような件もあり、当方は日月神示のサイトを恐縮ながら御用をさせていただいておりますので、念のために細かく打たせていただきます(ですが岡本天明様三典様、ひふみ神示に御縁ある方は「御魂磨きをさせていただけると」逆に感謝し笑っておられると存じます)。拝




『足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。手のひら返すぞ返さすぞ、此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ。(アメの巻 第一帖)』



上記帖にございますが、ひふみ神示とは最後(殿・しんがり)に出ているように思われますが元の初め三千世界の大道、三千世界の霊肉うれしうれし神示なのでございます。拝

(昨今も含め、神を学・理窟に押し込め、小さい自分の神にするのがお好きなようでございます)



ただ、下記内容から世界宗教の経緯(現在の問題点)など勉強になるとも存じます。

丁度良い機会でございますから「啓典の民、イスラーム、仏教について等々」も大雑把でございますが色々と打たせていただきます。
初歩的内容でございますが、少しでも参考等になれば幸いと存じます。


元々の御批判内容?が重複しており長文でございます。当方が打たせていただきたい内容(それらを理解等の為には“前提足る基本的な情報が必須”)もあり、さらに長文となります。うれしうれし気軽に御読みください。拝



◇解釈・翻訳上の問題


はじめにまず打っておきますが恐縮ながら学・理窟から神典(啓典、聖書等)を知ることはできないのでございます。

なぜならば神(仏)とは学・理屈ではないからでございます。


また念のためにこれも打たせていただきますが、岡本天明様は筆を書く尊ひ御役であり(無論、これについてもそれぞれの真剣な解釈がございましょう)“真剣に求めれているうれしうれしそれぞれの御用・解釈”だと存じます。

また神示にはくどくどと何度も「天明は神示書かす役ぞ。」とございます。
下記帖を御覧下さい。

(神示における“天明”という文字に“含み”がございます)


天明まつりの真似するでないぞ。役員まつりせい。(夜明けの巻 第十三帖)


天明は神示うつす役、書かす御役。(極め之巻 第十帖)




1)孔子は啓示をうけていません。少なくとも他の開祖が受けたようなタイプの啓示は受けていないと思います。

3. 孔子と老子は思想的には相反する立場だ、というのが一般的な解釈だと思います。それを同一の系列にのせるのは理解できません。

>孔子と老子を同列、同系統に列挙するあたりでボロが出ています。孔子は思想家であって宗教家ではないことが理解できていない証拠です。

5. クルアーン(コーラン)には預言者の系列として必ずアブラハム、モーゼが含まれています。クルアーンは神の言葉だと他ならぬクルアーンにありますから、上記の神示の言明にアブラハム、モーゼが含まれていないのは矛盾します。

6. ユダヤ教、キリスト教、イスラムの「神との契約」という最も基本的概念が「ひふみ神示」にはみられません。これはひふみの神がユダヤ教、キリスト教、イスラムで啓示を与えた神とは無縁の神である証拠だと考えます。

>イエス、釈迦、ムハンマド、孔子、老子などの流れを汲む教えだという主張が事実と一致しません。



上記内容纏めております。

啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)



「世界の生命ある教祖及びその指導神」への感謝(御恩)からの発露なのでございます。

(聖クルアーンでも聖預言者とあるような意と観てくださればよい)

ただただ「真心(御恩)から感謝(念)してくれよ。」、

といふ事でございます。拝


下記をお読みくだされば得心なされると存じますが、これが神示でいふマツルという意味なのです。

また学・理窟で理解するものではなく、神示とは“実践から学ばせていただくミチ”なのでございます(カムナガラ)。



失礼ながら、このようにそもそも取違い勘違いからはじった御内容。

前提から違っており、その固定観念(思い込み)から続く批判(レッテル)だとここからも分かるでしょう。


どの宗教も足元が地球で一つであるように、すべては一体であり同一から生じているのでございます。

このように自然・地球・宇宙・人体がミチを教えてもくださっているのです。拝

そして神示では「うれしうれしたたえまつれ」と申しておられるのです。




2釈迦は自ら悟ったわけですから啓示を(絶対者から)受けていません。そもそも釈迦はブラフマンや絶対神のような絶対者を認めていません。

* (歴史上の人物としての)釈迦はひふみ神示の艮の神の如き絶対神の存在を否定していますし(諸法無我)、ひふみ神示にみられる魂の進化も否定されます(諸行無常)。ひふみ神示では全ては「喜び」に向かっているとありますがこれも当然、釈迦は否定します(一切皆苦、涅槃寂静)。一体、どこが同じ教えなのでしょう?



このような内容に使う為に四諦・八正道・三法印等があるのでございません(釈尊、三法印をまるで知っておられるような打ち方でございます)。

同じ内容が重複しておりますので纏めております。

(1)の説明と同じくでございます。

啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)




(1)にまとめてもよいのですが、別にしておきます。

また同じ“教え”とは神示では説かれておりません。

(様々な教えなどがマコトを元に千紫万紅・千思万考<また千姿万態>でよく、また既存の仏教の概念などが仏魔とも化していると説かれているのです)


下記帖のようにも説かれているのです。拝


釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。(一八の巻 第一帖)



ですが何事も味噌糞一緒にしてはならず、順がありそれぞれの段階・段階の教えなのでございます(実際に現在の地球では言語・人種民族・文化も含め世はそのようになっているでしょう)。

また学・理窟ではなく『神・霊には順序・段階がある』のでございます。拝



日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。下つ巻 第十六帖


神第一ぞ、いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ。地つ巻 第六帖


『日本は日本のやり方に返して呉れよ、番頭どの、下にゐる臣民どの、国々の守護神どの、外国の神々さま、人民どの、仏教徒もキリスト教徒もすべての徒もみな聞いて呉れよ、その国その民のやり方伝へてあらうがな、九十に気つけて用意して呉れよ。地つ巻 第三十五帖』


『 神の国には神の国のやり方あるぞ、支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ、教もそれぞれにちがってゐるのざぞ、元は一つであるなれど、神の教が一等よいと申しても、そのままでは外国には通らんぞ、このことよく心にたたんでおいて、上に立つ役員どの気つけて呉れよ、猫に小判何にもならんぞ、神の一度申したことは一分もちがはんぞ。八月七日、一二。天つ巻 第十五帖


『日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。ウメの巻 第十一帖』


『近くは仏魔渡り来て、わからんことにされてゐるであらうがな。一八の巻 第五帖』





上記で得心されたと存じます。

また『はじめに(一)』にもございますが、釈尊(世尊)の「(道理に照らし)自らを灯明とせよ」という意味にも込められているのでございます。

どのような捉え方をしておられるのか存じませぬが、良い機会ですので『三法印』等基本的用語はこちらから御覧下さい。拝


当サイトに下記同内容が既にございますが恥ずかしながら初歩でございますが、少しでも参考になれば幸いと存じます。拝
学・理窟から知るものではなく(また知ることはできない)人も霊(魂)肉和合しており(ある意味神かかっており)、御縁ある上の存在(神・霊)に連なり教えていただいているのでございます(*学・理窟ではなく、人がイキする如くそのように成っているのです。ですから神示でもくどくど説かれておられるのでございます。拝)。

実践なさっている方々はその連なりの上の存在を知っており、日々ありがたく教えてくださっている事を実感・体感しているのです。ですからさらに感謝・御恩を知る事につながるのです。


大神であらされる世尊(釈尊)も御一人の御力だけで所謂“悟り”に到達したわけではないのでございます(学からでも輪廻転生も含めての行とも書では伝えられておられるでしょう。“粥を女性からいただいて”ともありこれも偶然ではないのでございます。拝)。

(また見えない“世界のコト”でございます。世尊<二千五百年前>がどのような観点から悟ったと判断しているか、その状況も学・理屈では分かるはずもないのです。三法印の真意を実践し知っている方がおられるのですか?また重複しますがミチ・行とは実践であり立体から体験し教えていただかなければ理解させていただけないのです)

マコトの正法ならば宗教等で世が乱れておりますまい(このようなコトは学・理窟ではないのですから実に不毛な話。ですが理由があり仕方ございません。拝)。




>ひふみ神示にみられる魂の進化も否定されます(諸行無常)


この方がそのように既存の学から思っているのですから、このような事については個人個人の段階でございます。それでよいのだと存じます
また『同じ“教え”とは神示では説かれてはいない』事も得心されたと存じます。

ですが下記の意味からは勿論否定されません(学・理窟から否定されようが肯定されようが関係ないのでございますが、“否定といふ手段”として使われておられるゆえに打っておきます)。


「進化」といふ語彙のニュアンスですが、念のために捉え方といふカタチで打たせていただきます。

(因みに神示では「白銀の巻 第二帖」に使われております)

世尊は輪廻転生により魂を磨き(進化)『涅槃寂静』に至ったという“言葉(認識)”が現在使われています。

なぜ“輪廻転生が必要だった”のでしょうか?


魂が進化(磨き)した(その逆もでございます。また“ミチを元に戻り(正道)弥栄”という意味もあるのです)。

(そのような意味でも魂とは進化するのです。例えば「輪廻転生から抜ける」等といふ表現などがございますが、ならば抜けるといふ存在があっての話でございましょう<「存在そのものが無くなる、また無くなるといふことも無く、それを想う事もなくまた事を想うといふ事もない」といふ理窟・学から云ふ方もおられるとは存じますが>。また学からでも過去生の物語もございましょう)

しかし、御用とはいえこのような事(初歩ですがとても大切なコトなのです)を打たせていただき恥ずかしく存じます。拝




>一切皆苦、涅槃寂静


ここもですが同じ“教え”とは神示では説かれておりません。

念のためにココも打たせていただきます。


ただ“ミチは一つ”でございます。四諦等のプロセスは、霊肉ともに世の調和・繁栄に有効であり似ております


知識的な三法印でも恥ずかしながらございますように、すべては“順序があり段階”があるのです。

初段“個”にしては四(してい)でございます。

色々なスコタンの解釈もございましょうがそのコトも含め“小乗の行”も神示は基礎であるとキチンと説かれてゐるのです(順・段階を踏まず味噌糞一緒にしてはならない打っています)。

何事の教えも、順序・段階“一、二、三”が大切であり一歩一歩ミチに至らないとならないのです。



神示的な内容では下記にもございます。


我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。(月光之巻 第五十二帖)


さらに“他の喜びが自己の喜びと知れば(世のシステム的にも必要でございましょう)”霊肉うれしうれし調和・繁栄するでしょう。

またこれも打たせていただきますが、科学技術等がより神心に適い進歩するならば霊肉うれしうれし弥栄弥栄となりなると存じます。

(“今ある教えも”それにより変わってくると存じます。拝)




釈迦の説いた内容をもっとも忠実に保存している原始仏教の教えと完全に矛盾しています。例えば仏教思想の核心となる四諦説と完全に相反しています。


三法印も含め色々知っておられるのだと存じますが、上記内容の中だけでは完全に相反しているのでしょう。これはこれで楽しくてよいと存じます。それぞれの段階等でございます

世尊の説かれた教えは土台(基本)がない現代の人々では到底御理解させていただくことすらできないと存じます(“我々は根本無知であり”基礎・土台がなく、さらに“我々を苦しめる仏魔が蔓延っている”のですから)。

ゆえに世尊(釈尊)は始めは衆生に説くことを断ったと、説話にもあるのでしょう(イエス様の素晴らしい行為・行動足る教えも、都合よく解釈いたし争いを起こすことに利用されているくらいなのですから)


それでは、神示にはこのようにございますから打たせていただきます。拝


小さいことから始めよ。小乗の行と馬鹿にするでないぞ。小乗の行から大乗の真理を掴むのであるぞ。黒鉄の巻 第十二帖

小乗の行と馬鹿にするでないぞ。理屈で神を割出したり、そろばんでハヂキ出したり、今の鼻高さんはしているなれど、何処まで行っても判りはせんぞ。春の巻 第十九帖


四諦(してい)のほかにも難しい概念などがたくさんございますが、恐縮ながら現在の人は単語(学)に囚われ理解しているつもりだと存じます。

(恐縮ながら物事はシンプルであり霊肉体験から教えていただけるものであり実践が大切と打たせていただいております。拝)



下記を御覧くだされば大変恐縮ながら少しは分からせていただけると存じます(日々実践させていただき、体験させていただいておりますので恐縮ながら神示的にではございますが打たせていただきます)。

四諦(したい)とは“苦諦・集諦・滅諦・道諦”でございます。


苦の因縁(無論さらに縁起し感覚器官にも)である四苦八苦の(執着、苦を楽と勘違いする心根のケガレ等)から十悪(ハタレ等)が生じるのでございます。

ゆえに行為、行動を改心改善(祓い実践)し、苦の原因を知り断ちなさいとある。

それには“学・理窟ではなく”神(仏)の御力・加護が必要であり(実感・体験すれば得心します。そのような仕組なのです)、“ひふみ神示を拝読し(このような意味でも言葉とは神)”ミチを実践しなくてはならない。

ゆえに小乗の行(土台)が大切だとくどくどと説いているのでございます。

(なぜならば神道で云ふところの“心の御柱”が建つからでございます。建つならば御教えてくださるからです<茲では“法と一体化”と打てばよいでしょうか>)


マコトの十善を元(八正道では「どのようにしたらよいのか」とイマの人達は簡潔に分からないのです。さらに「正見」といっても具体的にどのように正しく見ればよいのか基準がわからないでしょう)に五つの働き、即(すなわ)ち「かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる」を正しく発揮して禊祓いをしなさいと簡潔に分かりやすく神示では説かれているのです(内観し情報を整理整頓)。


さすればありがたいことに、心の御柱(顕斎的表現では“社、教会、仏閣等”)が建ち“マコトの神が宿る”のでございます(様々な“学のみの騙しの解釈”が、ございますが“神人合一(これに段階がございます)”とも云われます。

因みに西洋にも同じような言葉(表現)はございますがカタチのみであり、霊、または物質的に偏り実践・御教授を大変恐縮ながら御理解されておられないと存じます(仏・密教でも同じような言葉がございます)。
ゆえに内実が伴わず争い諍い等(十悪)を起こし起こさせていると存じます。
大変恐縮でございます。拝


ゆえに“マコトの実践”にはイミがあり、所作を一致し整える行<ぎょう>を行うのでございましょう。

(言葉上では実に簡単なのですが六ヶ敷しい実践の秘儀なのでございます。無論順序・段階があるのです)



ここまで分かりやすく簡単・明瞭・有意義に恐縮ながら神示では“四諦(したい)以上のマコトの真理(神宝)”が説かれているのでございます。
ですから実(ジツ)があり真でございますゆえに、霊肉うれしうれしとさせていただける。感謝


ですが現代では、このような初歩が分からせていただけないほどに曇り澱み腐り頑迷となっている、現在は苦を楽とも勘違いしているほどの末法の世なのでございます。



そしてひふみ神示にはこのように説かれております。拝



『 汽車あれば汽車に乗れよ。飛行機あれば飛行機に乗れよ。歩いたり、馬で行くのでは間に合はんことになってゐるぞ。昔のままの宗教のやり方ではならん。根本はよくても中々に目的地にはつかん。飛行機時代には飛行機に乗れよ。乗って進む宗教の道によらねばならん。今は今の姿が真実ぞ。そなたの頭で割り切れんと申してブツブツ申すでないぞ。あるものそのものが真実であるぞ。そのあるものを拝み、祝福して、其処から出発せよ。現在を祝福することは過去を、未来を、総てを祝福することぞ。たとへ如何なる現在も、その現在を祝福せねばならん。喜びせねばならん。喜びもとと申してあらうがな。(黒鉄の巻 第一帖)







4. ムハンマド(マホメット)の啓示が「とどめ」で以後預言者は現れないというのがムハンマドの教えです。ムハンマドの啓示が由緒ただしい神からのものであるならば上述のひふみ神示の言明は偽りとなりますから矛 盾しています。

ムハンマドは彼以後の預言/啓示はないと否定しています。


ムハンマドの教え”“ムハンマドは”ならば彼がそう思っているでしょう。

正確にはアッラーの教えでございます。

またこのような事にイスラーム(聖クアラーン)を利用してはなりません(どのような事に繋がり意味しているのか分かっておられるのでしょうか。ここは特に感心しません)。


重複しておりますので二つ纏めております。

(1)の説明と同じくでございます。

啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)




ひふみ神示とは、啓典の民と云われる人たちだけを対象としているのではない”のでございます。


一の国は一の国の教、二の国は二の国の教、三の国は三の国、四の国は四の国と、それぞれの教あるぞ。道は一つぢゃ、取違ひせん様にせよ(ウメの巻 第二十三帖)


此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。(アメの巻 第一帖)


三千世界に響かせ鳴り成るマコトの霊肉うれしうれしの元のミチ、マコトの神示なのでございます


指導神の御一柱として各大神として御奉る(感謝)ということなのです。

そして“地球が丸く一つ”である事を事実我々は知っている時代(段階)なのです。

大陸、国、人種、民族、言語、宗教がたくさんございますが、足元(元)は一つという実にシンプルな答えを御知り(うれしうれし神心を御治り)ください。




という事で得心されたと存じます。拝

ですが、これを利用(悪用)し争い諍いに利用するヤカラ(死の商人・拝金教も含め)がおられると存じますゆえに念のため、さらに知識も含め経緯を知らなければならないと存じます。

長文になると存じますがこれも丁度良い機会でございます(感謝)御覧下されば幸いでございます。



イスラームについて知らない方も多いと存じますので恐縮ながら簡単に失礼致します。

現在、中東・アジア、アフリカ諸国を中心に10億人以上の信者を持つイスラームの聖クアラーン(コーラン)は西暦610年に下されました。

アッラーの御教えを“天使(聖霊)を介(通)して”、文字が読めないとされるムハンマド様が賜り(下り)、メッカ・メディナなどでの22(23)年間御神託されたものを纏めたのが聖典コーラン(クアラーン)と云われております。

(聖典としての編纂も含めた成立はムハマンド様が神上がられた“頃だとも云われております”。偽ハディースもあり印刷の件も含め色々打ちたいことはあるのですが、現在の聖クルアーンは“オスマーン本”とも云われています。また他資料には「預言者は伝承を記録することを命じた」「または禁じた」といふ意見もあるといふ事は資料にありましたので、知識の一つとして打っておきます)


念のため註釈を:神示では大神と表現されております。日本の語彙と海外の語彙とでは籠められている意味が違うのです(気になるならば神の使徒・警告者でもよいでしょう。ただ理窟ではなく霊的な順序があるのです。この件では他の意味でこちらに御座います『西洋数霊盤について』参照)



話を戻しますが、

もし全世界(地球上)で以後の預言/啓示(マコトの神の預言/啓示)が行われないならば全世界中で“アラビア語を学ばなければならなくなる”でしょう。

(クルアーン等読めばどのような事なのか得心されると存じます<アラビア語のクルアーンのみが聖典>)

また以後1400年以上“世界中の預言/啓示”が、結果無くなることになり日本の宗教団体等(ひふみ神示に御縁ある宗教を挙げるならば黒住教・金光教・天理教・大本等)も含まれる事になるのです(ある意味でスピリチュアルもでしょう)。

(*因みに「輪廻転生等」という流れもございますが、それもイスラームは認めてないと資料にございます<Q75:3等参照>。ただ一部シーア派(日本人口と同じ一億人の信者)によってはガイバ<お隠れ>等の表現もあり、またこのような表現もあることを置いておきます『聖預言者は、「死ぬことによって消え去るなどと考えてはいけない。ただある家から別の家に移るだけなのである」と仰っている。(資料より抜粋)』)


打てないことも多々ございますが、このような点も含めまして次は各聖典を引用させていただき分かりやすく知識として打たせていただきます。

また念のために打っておきますが日月神示は“下記のような教えの段階”ではございません。

ですが学・理屈ではなく、御縁があり同一に繋がっているのです(色々と打ちたいことはございますが時節ではございません、恐縮ながら割愛。拝)



その前に文脈からの該当箇所を二つの本(訳書)から少し抜粋しておきます。

どのような状況(経緯も含め)でこの文言がでてくるのか(*前者、後者の訳書では註釈が異なる)も恐縮ながら基本でございますから、知っておく必要があると存じます。拝

あまり日本の人々になじみなく拝読されてない聖クルアーンを知るキッカケとなり当時も含めまして地域性、時代背景等も知ることができ勉強になるとも存じます。

(クルアーンとは恐縮ながら主にアラブ世界に適った聖典だと知識の上からも知るでしょう<現在の信仰地域でもそのような風習・慣習・傾向がある地域だと存じます>)




<抜粋ここから>

『コーラン』 三三章 「部族同盟」

37 アッラーの祝福を受け、汝(マホメット)にも可愛がられたあの男(その名をザイドと言い、もとマホメットの奴隷だったが、後に解放されてマホメットの養子となった)に汝が、「自分の女房は大事にしておおき(離婚しない方がよい)。アッラーを懼(おそ)れかしこまなくてはいけない」と言った時のこと。あの時汝は、いずれアッラーが発(あば)いておしまいになる気持をそっと胸に秘めておった(ザイドの妻ザイナブは美しい女。マホメットは一目見て惚れ込んでしまった。忠実なザイドはそれを知るや、離婚して妻をマホメットに譲ろうとした。マホメットは心中ひそかに喜んだが、醜聞になることを恐れて、一時はザイドの離婚を抑えようとしたのである)、他人の口の端にのぼるのが怖わさに、アッラーを怖がることこそ本当なのに。

 それはとにかく、ザイドがさっぱりと彼女のことを済ませてしまった(完全に離婚の手続きをとってしまった)ので、我らは彼女をお前の妻にしてやった。これは一般に信徒らが、自分の養子の女房でも、完全に用が済んでしまったものであれば自由に(妻にして)よろしいという(規則)を作りたいと思ってしたことであった(これは、マホメットがザイドから女房を取り上げたという非難にたいして、それには正当な理由があるという主張である)。何事によらず、アッラーの命じ給うことは実行せねばならぬ。

 38 アッラーがせよと仰しゃったことであるからには、何もムハンマド(マホメット)に咎はない。過ぎた昔の人たちに対してもアッラーはいつもこのようにして来られた。アッラーの御命(みこと)はもはや動かせぬ運命となる。 39 みな(前節の「昔の人たち」を受ける)アッラーの御託宣を世に伝える役の人たち(マホメットのような預言者たち)、アッラーだけを懼れ、そのほかの何物も懼れることのない人たちであった。まことに、勘定をつけるのはアッラーおひとりで他はいらぬ。

 40 ムハンマド(マホメット)はお前たちの誰の父親でもない(預言者は宗教上その宗団の「父親」であるが、それは肉親の意味での父ということではない。だから誰の妻を譲り受けても悪いわけはない、本当の父は息子の嫁を絶対に自分の妻にすることは許されなかった)。もともとアッラーの使徒であり、預言者の打留(うちどめ)であるにすぎぬ。まことに、アッラーは全知におわします。

<抜粋ここまで>



<抜粋ここから>

『聖クラーン』 三三章

37 アッラーの恩恵を賜わり、またなんじが親切をつくした者に「妻をおまえのもとにとどどめ、アッラーを畏れよ」と、言ったときを思え。 だがなんじは、アッラーが暴露しようとされた、己れの胸の中に隠していたことを、人の口のはにかけるのを恐れた。 むしろなんじは、アッラーを恐れるのが本当であった。 それでザイドが、かの女について必要なことをすませたので、われはなんじをかの女について必要なことをすませたので、われはなんじをかの女と結婚させた。 これからは信者が、必要な離婚の手続きを完了したときは、己れの養子の妻でも、さしつかえないことにした。

アッラーの命令は完遂しなければならぬ。

38 預言者が、アッラーの命令したもうことを行うのは防げない。 これはなんじ以前の者に対するアッラーの慣行である。 アッラーの命は、動かせぬ定めである。

39 アッラーのお告げを伝える者たちは、かれを恐れ、アッラー以外の何ものをも恐れぬ。 アッラーは清算者として万全であられる。

40 ムハンマドはなんじら人びとの、何人の父でもない、もともとアッラーのみ使いであり、また諸預言者の最後者である。 まことにアッラーはよろずのことの全知者であられる。

<抜粋ここまで>



このような文脈があり文言があるのです(他のコーラン訳には「封緘(ふうかん)・封印」といふ表現もございます。こちらも御参照下さい)。

*始めに引用させていただいておりますコーラン訳のはしがき、井筒氏については参考までにこちらから(様々な本で推薦・推奨されております)


二書の聖クアラーン訳「三三章」の続き、該当するハディース等を読むことでも勉強になると存じます(こちらから御覧下さい)。




下記資料(辞書)には別に記述がございますが“「イスラームの観点からは、ムハマンド様は最後の預言者であるから」”といふ認識であることも打っておきます。

ですがハディース等にもございますようにムスリムの方達はそのように信じておられるのでございます。『一九八〇年四月ロンドンで開催されたイスラーム会議の声明』の一部を御読み下さい


<引用ここから>

普遍的イスラーム宣言

2 イスラームの生活観


(前略)


預言者ムハンマドに下された天啓の書、『クルアーン』は最終の導きの書であり、預言者ムハマンドは最終の預言者であって、彼のあとには預言者は登場しない。

 『クルアーン』はアッラーの言葉である。その中にはいかなる人間の解釈も許されぬ神の啓示が保存されている。


(中略)


ウンマ、つまりムスリム共同体は、人間社会における搾取、抑圧、不正をただ黙認するだけのものと見なされてはならない。それは社会変化、復興を意図する運動へと組織化され、世界の抑圧され、虐げられた民衆を救うために積極的に活躍しなければならないのである。イスラームは、アッラーの意志を地上に実現するため、たえず努力を怠らぬよう信者たちに呼びかけている。それは、この目的達成の道に立ちはだかる障害に対して、断固戦うようムスリムに呼びかけている。この努力がジハード(信仰のためのあらゆる努力、聖戦)と呼ばれるものなのである。

<引用ここまで>




次は、実際に聖クアラーンから抜粋(地域性も含めた特徴)御覧下さい(その前にこちらから参照下さい)。




<コーラン抜粋ここから>

さもなければ生贄(少くとも羊一匹)を出すがよい。


みんなお前(マホメット)に月経のことで質問して来るであろう。こう答えてやるがよい。あれは(一種)病であるゆえに、清浄の身に戻るまでは決してそのような女に近づいてはならぬ。浄(きよ)めがすっかり済んでから、アッラーのお言いつけ通りに彼女らに接するのだ。アッラーは悔い改める者を愛み、また身を浄める者を愛み給う。

Q2:222

かれらは月経について、なんじに問うであろう。 言え「それは不浄である、それゆえ月経時には、妻から遠ざかり清まるまで近づいてはならぬ。それで清まったときに、アラーが命じたもうところに従って、かの女におもむけ。 まことにアルアラーは、悔悟して不断にかれに返る者をめでたまにまた清める者を愛したもう。(聖クラーン訳)


言ってやるがよい「おい、そんなものよりはるかによいものがあるのを教えてやろうか。神を畏れかしこむ人々は、いまに神様のところで潺々と河川流れる楽園に入れて戴いて、そこに永久に住みつき、清浄な妻(前出、天上の処女妻、フーリーのこと)を幾人もあてがわれ、アッラーの特別の思召しを頂戴する。アッラーは御自分の奴隷たち(信者を指す。神は主人、信徒は奴隷というセム的な考え方)のことは何から何まで見ていらっしゃるぞ。」

言ってやるがいい。(ムハンマドよ)。「わたしはこれらよりも善いものを,あなたがたに告げようか。アッラーを畏れる者たちには,主の御許に楽園があり,川が下を流れている。かれらはその中に永遠に住み,純潔な配偶を与えられ,アッラーの御満悦を被るのである。アッラーはしもべたちを御存知であられる。」

(上記と同じ節。ウェブでのコーランより)


それから(娶ってはいけないのは)正式の夫をもつ女。但し汝らの右手の所有にかかるもの(奴隷とか戦争で分捕って来た女)はそのかぎりにあらず。これが汝らに対するアッラーの御掟であるが、この掟の外であれば、己が財力の許すかぎりで、といっても放縦(ほうしょう)な野合はならぬが、正式に結婚して、妻を求めることは差支えない。そして、女たちから快楽をえたならば(これは所謂「一時結婚」、つまり一定の時日を限って同棲する方式を指す)、所定の報酬を払ってやること。その場合、所定の報酬額以上のことは、当事者の間で自由に取りきめてよろしい。まことにアッラーは全知にして至高の智者におわします。

(註釈:ムトア<一時婚>について打ちたいのですが割愛)


だが信仰を抱き、義(ただ)しい道を踏み行う者、そういう人たちは潺々と河川流れる楽園に入れて、そこに永久に住みつかせてやろう。そこでは清浄な妻(前出、天女フーリーのこと)を何人もあてがおう。そして影濃き木影にはいらせよう。


おおよ予言者たる者は、地上の(敵を)思う存分殺戮した後でなければ捕虜など作るべきではない(殺さないで捕虜にした方が身代金が取れるから得なのである)。一体汝らはこの世のつまらぬ財を欲しがりすぎる。アッラーの欲し給うのは来世じゃ。アッラーは偉大な明敏な御神におわします。


さて、お前たち(回教徒)、信仰なき者どもといざ合戦という時は、彼らの首を切り落とせ。そして向こうを散々殺したら、(生き残った者を捕虜として)枷(いましめ)をかたく縛りつけよ。 それから後は、情をかけて放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をすっかり下ろしてしまう(完全に終る)のを待つがよい。まずこれが(戦いの道というもの)。勿論アッラーの御心次第では、(こんな面倒な道を踏まずとも)一度に彼ら(異教徒)を打って仇を討つこともおできになろう。だが、お前たち(人間)をお互いに(ぶつからせて)それを試みなそうとのおはからい。アッラーの道に(聖戦において)斃れた者の働きは決して無になさりはせぬ。 きっと御自ら手をとって、その心を正し、 前々から(現世にいた時から)知らせておいて下さった楽園にはいらせて下さろう。』

四七章 4 なんじらが不信心の者と戦場で会うときは、かれらの首をうち切れ。 かれらの多くを殺すまで闘え、捕虜になわを堅固にかけよ、それから情けを施して放すか、または身のしろ金を取れ、戦いが重荷を降ろすまで、 このようになんじに命じたもう。 もしアッラーがおぼしめしまら、きっとご自分でかれらに報復されよう、だがかれらは、なんじらがお互いにためすために戦いを命じたもう。 およそアッラーの道のため、戦死した者には、決してその行いをむなしゅうしたまわぬ。(上記同節「聖クラーン」より)

<コーラン抜粋ここまで>



ゆえに当時は寡婦(未亡人)、被災した子供達となる人が多かったのでございます(こちらを参照)。それと清浄な妻を幾人も等は、別の価値観だといふ人もおられるでしょう(ゆえに味噌糞一緒にしてはならず“文化性、地域地域毎の集い、各々の段階”なのです)。
*『婚姻の書』四:三、二〇、八五等参照


“地域、時代性、各々文化・霊性段階に適った教え”(当時の範囲の概念も含め)だと得心しましたでしょうか(我々が「石打ち」なども21世紀の世で実際にしますか?)。

(また良い機会ですから打たせていたきますが、世の諸宗教的問題の一つは「神の本意、真意、神意」より離れ“おのれ等の聖典・神(利害、縄張り争い等) ”としてしまふ事にある。ゆえに分派も含め争いなどを起こしてしまう<近年も含めその問題を悪人に利用されるのです>。争い諍いとなれば、それは神の本意<御心>ではありますまい。*「イスラームの変遷」も参照されたと存じます。拝)

因みにこのような箇所を削っている書もございます(または“譬え”としている解釈もある)。

また当時の人々は知識レベルで実際に地球が丸い事をまだ知らなかったのです(念のために範囲的な当時の概念・内容としても打たせていただいております)

このような節もございます。



<引用ここから>

 このようにアラビア語で、クラーンをなんじに啓示したのは、なんじが都市の母(メッカ)ならびにその周辺の者に警告し、また疑いの余地のない、集合の日について、かれらに警告を加えるためである。 その日一団は楽園に、また一団は燃えたつ火獄にはいろう


(『聖クラーン』 四二 相談(シエーラ))

<引用ここまで>



<引用ここから>

 こうして我らが汝に特にアラビア語のクルアーン(『コーラン』)を啓示したは、すべての邑(まち)の母(メッカを指す)およびその付近の人々に警告させようがため。疑念の余地なきかの大集合の日(最後の審判の日)、すなわち一部は天国、一部は地獄、というあの日のことを警告させようがため。


(『コーラン』 四二 相談)

<引用ここまで>



なぜこのような節があるのでしょうか。

(ここからもアラビア語圏ともとれるでしょう。これに人<分派も含め>がいろいろな註釈を付けるのですが、真実はアッラーのみが御存知)


それでは以上のような点も含めまして、ユダヤ教、キリスト教との関係性の問題、近年の拝金教による周辺国との緊張関係への宗教利用の問題、聖クアラーン降誕から千年以上(一四〇〇年)経った現在の世界情勢も含めかんがみて、“このような捉え方”が御教え(御心)に適うと存じます(学・理窟ではないのでございますから、すべては時節がくれば分かると存じます。拝)。


これで知識的にも簡単にではございますが、どのような段階の御教えなのか等も含め得心されたと存じます。拝

他にもさまざまに複雑な問題があるのでございますが割愛させていただきます(すべて“人の心根の問題”)。
また、このような事に聖クアラーン等を利用してはなりません(マコトの御民に平安あれ)。拝




7. 「アッラーの神」という神示の表現(紫金之巻第4帖など)はイスラムにおける神を全く理解しないものです。クルアーンを与えた神の系統と神示の神に正統な関連があるのならば、このような言葉はあり得ません。


仏教によるもののみ救はれると思ってはならんぞ、キリストによるもののみ救はれると思ってはならん、神道によるもののみ救はれると思ってはならん、アラーの神によるもののみ救はれるのでないぞ、その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるのではないぞ、何も彼も皆救はれるのぢゃ、生かすことが救ふこととなる場合と、小呂すことが救ふことになる場合はあるなれど。紫金之巻第



上記帖は下記にかかるのです。



日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)


というコト(含み)でございます。拝



聖典クルアーン(コーラン)における“アッラー”とはTHE GODを示す言葉とは広く既知でございます。

神示をお読みくだされば分かるのですが神示表現は含み(示唆等)があるというコトなのです。

(イスラームにつきましてもムハンマド様の死後すぐに跡目争いが起こりなぜ分派したのかは、「イスラームの変遷」にもございます。ですから現在も緊張関係をさらに“心無い人たちに過去から利用されている”)


といふ事も含め、恐縮ならば神示を御拝読、実践されておられるならばこのようなコトは基本でありハラで分かると存じます。拝



下記帖にも同じ意味ございます。


基督(キリスト)の十字架も同様ぞ、基督信者よ改心致されよ、基督を十字架に釘付けしたのは、そなた達であるぞ、懺悔せよ(アメの巻 第二帖)


今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。(一八の巻 第一帖)


この流れも含め十字軍遠征から魔女狩り、第二次世界大戦、現在のパレスチナ問題にまで繋がっている事からも御理解なされる事と存じます。



これも打たせていただきますが、下記にあるようにひふみ神示に御縁ある日月の御民(日本だけでなく世界の大和御民)が実践しハラで読み取ってくれる事をマコトに信じてくださっているのでございます。拝


われの思いすてて了ふて早うこの神示、穴のあく程うらの裏まで肚に入れておいてくれよ、この神示の終りに、神強く頼むぞよ。(一八十の巻 第二十帖)






8. ムハンマドやイエスをまつれという次のような言明

「日月大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、.... 省略...孔子大神、すべての十柱の大神は、光の大神として斎き祭り結構致しくれよ」(ソラの巻き第一四帖)

「釈迦祭れ、キリスト祭れ、マホメット祭れ」(松の巻第一七帖)

はアブラハム、イエス、ムハンマドの信奉した神の啓示の言葉に反しています。たとえば、クルアーンの次の言明、

「すべての礼拝堂はもともとアッラーのもの。されば(礼拝堂の中で) アッラーと一緒に他の()をあがめてはならぬ。」(メッカ啓示妖霊 18)

と矛盾します。偶像崇拝がどれほどしつこく徹底して否定されているか神示では理解していないようです。たとえ預言者といえど祭ることなどこれらの教えでは許されません。また釈迦滅後もしばらくの間は釈迦の教えにしたがって釈迦の像すら造られませんでした。

例えば、クルアーンでは次のような言明がなされています。

「アッラーの御目からすれば真の宗教はただ一つイスラームあるのみ」 (メディナ啓示イムラーン一家 17)

「アッラー、その他には絶対に神はない。必ず汝らを復活の日に呼び集め給うであろう。ゆめ疑うまいぞ。アッラーの御言より確かな言葉を誰が言おう」(メディナ啓示四女 89)

はたしてこのクルアーンの表現がそのような意味の方便であったと解釈できるでしょうか?そのような見方はそれらの開祖たちへの最も大きな侮辱と言うべきではないでしょうか。



(1)の説明と同じくでございます(上記も同じ内容と存じますゆえに二つを纏めております)。

啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)


という事で得心されると存じます。



このようなやり方にクアラーン等聖典を使うコトこそ各宗教を利用しそれらの開祖たちへの最も大きな侮辱となると存じます(世尊も含め開祖等は争い諍いを望むような人たちではございません)。


イスラームはイスラームでよいのでございます。

さらに打たせていただくならば、各々段階・段階の教えといふ事を既に得心されたと存じます。

(当時の様々な対立、背景もあることはお分かりになられたでしょう。他関係資料にも偽ハディースも含め註釈も様々にあるともございます。ただ、その事を公言すれば攻撃するようなコトに工作<利用>するスタコンなヤカラがいる事も記しておきます。ゆえに『イスラームは恐い』といふレッテルとなっている)


また神示では「偶像崇拝せよ」と書かれてはおりません。

「どのような意味が偶像崇拝なのか」とマコトに開いてくださっておられるのです。拝

(我々がそのような事がわかる段階に上がっているのです、またもうここまで情報が出ておりウェブで世界が繋がっている段階なのですから分からないとならないと存じます。当時<1400年前>に比べたら賢者レベルがごろごろいるのですから。ですが時代に関係なく「他への共感性を知り霊肉考え感じ得るから人と存じます」拝)


また“当時の偶像崇拝、多神教の概念と現在では異なる”事も熟慮しなければなりません。

(『キブラの方向が変えられ、黒石<聖石>・「アブラハム様の足跡」等に向かって祈りを捧げ当時の拝礼の仕方等をそのまま伝承してゐるのか』いう事も含めでございます。*内実が大切だと云ふことなのです、それが理解できる段階に我々はいるのです)


当時と現在では世の段階・状況がまるで違うのです。

それだけ我々の段階が上がってるといふ事でもあるのでございます。感謝

(物質的文明・科学技術においても事実日々発展しているでしょう)


世尊につきましては既に上記で得心されたと存じますが、当サイト『はじめに(一)』も御覧下さい。




9. イエスを「キリスト」(救世主)と表現しながら救世主として扱ってない次の言明

「七重はキリストじゃ、八重は仏教じゃ、今の神道じゃ、いままでの教えはつぶれると申してあろうがな」(五葉の巻第十帖)

は意味を理解せずに通俗的無理解に基づくものと思えます。これを単に言葉の使い方に過ぎないなどとは、イエスの神の系列にある限り言えません。なぜなら、

「言葉は神であった」(ヨハネ伝 1.1)

のですから。

新約聖書に記録されたイエスの主張と抵触します。イエスの教えでは「イエスを信じるもの*だけ*が救われる」と明記されています。ひふみ神示はそれを否定しています。



上記、重複しておりますので纏めております。

(1)の説明と同じくでございます。

啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)



キリスト教はキリスト教でよいのでございます。

クアラーンでも御指摘なされている節があるように、読まれたならば啓典の民の問題も知っておられるでありましょう。手段として利用してはなりません)


ここも上述させていただきましたが、そのようなハラづもりで神示で否定はしてはいません。

『はじめに(一)』でも打たせていただいておりますが、イエス様そのものがミチなのでございます(因みに上記で引用されている帖「七重はキリスト」は次に仏教・神道とございますようにキリスト教の事)。

ただ現在は“そのイエス様の説かれたミチはどうなっておりますか?”、ゆえに世が苦しみ殺し騙しがありキリスト教、イスラームなどが“利用され”争いを起こし起こさせているのです(無論、911等を観ても分かるように、それを操っている背後がいる。と申しましても大衆操作さえされている世)

本物・本当の教えであるならば争いは起きないでしょう(教えもいいですが、実践しないならば意味がない)。


ましてイエス様は「殺し合いをしろ、騙してカネを儲けろ利息をとれ、殺しあう武器を作れ」と行為、行動から説いておりましたか?(説いていないのにも関わらず、神心すら忘れ数千年争いが常に絶えなかった。『一八の巻 第一帖』等参照)


ゆえに神示ではゝを入れよとあるのでございます(元のミチに戻れとあるのです)。

何事もハラ次第。神示はすべてミチ(マコト)を基として肯定していると存じます。


それが下記帖でございます。



 悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。(五葉之巻 第十帖)』



また念のためこれも置いておきます。拝


<抜粋ここから>

12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。

12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

(マルコによる福音書)

<抜粋ここまで>




>「言葉は神であった」(ヨハネ伝 1.1)


含みも含めまして『黒鉄の巻 第二十七帖』も参照して下さい。拝(実践・体験から御知りください)。


上記は新約ですが、旧約の創世記に似たような文言があるのです。

そしてヨハネの福音書ではイエス様等についてこれが使われている(神と強調する為)とも云われております。


また念のためにこれも打っておきますが、言葉とは言語のみではございません。数字、シンボルも合わさって“文明が飛躍的に進歩した”コトからもわかるでしょう。

〇の概念の含め数字とはここからも、どれほど高度なものなのかが分かるのです

またこのことについては当サイトですでに開かせていただいております。

(「言霊」も含め古神道にはそのような概念が既にあるのです)



念のため元の内容を下記に。


<『旧約 創世記』ここから>

1:1 はじめに神は天と地とを創造された。

1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

<『旧約 創世記』ここまで>



<『新約ヨハネの福音書』ここから>

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は初めに神と共にあった。

1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

1:6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。

<『新約ヨハネの福音書』ここまで>




10. 「ひふみ神示」の次の言明

「歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし」(星座の巻第二五帖)

はハブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマド、釈迦の教えと一致しません。例えば、クルアーンの次の言明

「不義をなす輩には、苦しい罰を用意していらっしゃる」(メッカ啓示人間30)

「裁きの日には丸焼きとなり、抜けだそうとてもそうはいかぬ」(メッカ啓示 15)

などから明らかです。



(1)の説明と同じくでございます。

既に得心されたと存じますが、同じ“教え”とは神示では説かれておりません。

また“啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ(ソラの巻 第十四帖)



上で既に打たせていただいたので、得心されたと存じますが“順序・段階を神示は説いておられる”のです。

味噌糞一緒にしてはなりません。


己の心(ハラ)に地獄があるから、己を日々裁くのでございましょう。

(世の争い、戦争等も観れば分かるでしょう。人の心根が災厄を起こしているのです)


『 歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし。さばき説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分をさばいてゐること、人民に罪なし。(星座之巻 第二十五帖)


つまりハラの掃除・洗濯第一という事であり、

人の潔斎、国の潔斎が第一だと説かれているのです。

マコトのミチでございましょう。拝




自動書記によって記述された数字、カタカナなどの原文の解釈・翻訳が信頼に足るものではないと判断します。それは解釈・翻訳の特定の箇所が正しくない、誤っているというレベルではなく解釈・翻訳作業全体が、信用できないと考えます。

>数字や仮名しか使えないということは重大な事を意味している可能性もあると考えます。つまりこの神は文字をきちんと扱えないというレベルなのも知れないという可能性です。

>「ひふみ神示」を全てが虚偽であるとまるごと否定するつもりは私もありません。「ひふみ神示」はそれ自身が主張しているほどの内容ではないというだけです。



上記のような思い込みに基づく失礼な表現が多いと存じます。
『それは「それを主張している貴殿がそれほどの内容ではない」とも云っているようなものなのでございます。』と返される事を期待している不毛な内容でもございます。

ゆえに失礼ながらその心根も含め、前提からこのような勘違い取違いの内容解釈となっている。

ここについてはキチンと打っておきますが、神示であるひふみ神示を学・理窟から強引に解釈し岡本天明様、岡本三典様に妄想家というレッテル、悪口を貼っているコトも含め、それが証明ではありませんか。


高度な神霊ほど数字、シンボルとなると他文献にもございますように(このように学・理屈ではなく実践・体験でしか教えていただけない立体の世界のコトなのです)、一語で万語の意味を伝へると申しても御理解できぬでございましょう。


数字、シンボル、文字そのものに意味が込められている”のです。

(知識的には当サイト「関係情報」を御覧下さい)



<引用ここから>


さっき数字の中に多くの意味があるといったのと同じで、その線の曲がり具合、書かれてある位置、前の字と次の字との間隔、字の大きさや傾斜、同じ字でもその姿や形のわずかな違いなどの中に霊たちは多くの意味を込め、これを相手に伝えることができるからだ。


『私は霊界を見てきた』エマニュエル・スウェーデンボルグ著 V 霊界の文字の驚異より


<引用ここまで>



文字(シンボル等)が開き語りかけてくるのでございます。拝


豆知識:

イスラームの聖典コーラン(クルアーン)においても“19”という数霊がよく云われております。

(コーラン七四節も参照下さい。また「凝血」等の関連性含め)

つまり数字とは天からのメッセージ等といふ認識が過去からもあるのです。

(無論、3、7、12、72等も既知でしょう。因みに聖クアラーンでは610、82といふ数霊もあるのです)


既に打たせていただきましたが数字を知ることにより、文明(科学)がより発展するのです。




当然、これに古事記の「天は五なり」をこじつけるのも誤りです。


何を根拠として誤りとしているのかが得心されたと存じますが、岡本天明様の解釈も含め“真剣に求める方々の”それぞれの解釈でよいのでございます。拝

また、それぞれの段階による解釈なのでございます。


「五」についてございますので、当サイトの数霊盤等を見てくださり少しでも参考になれば幸いと存じます。

また恐縮ながら何事にも含み(裏表等)があるのでございます。拝



>これは後述の「8通り」についての問題と関連します。

このような「8通りに読める」などという神の発言などユダヤ教、キリスト教、イスラムではまずありえないと考えます。

8通りに読めることに関して別の問題もあります。

>人間と神とは(一切の妥協ぬきの神からの一方的な)契約によって結ばれた関係ですからその契約が一意に解釈できないものであるという発言を神が自らするなど、まさに「ありえない」ことです。それを守るか否かで最後の審判で救われるか救われないかが決まるわけですから曖昧な筈はありえません。



このような内容が続きますから恐縮ながら繰り返し打たせていただきます事を御了承ください。拝

「ユダヤ教、キリスト教、イスラームについて」という箇所は(1)の説明と同じくでございます。

啓示を受けた・受けてない”などというような観点からひふみ神示には下記のようにあるのではございません。


 釈迦、キリスト、マホメット、其の他、世界の生命ある教祖及びその指導神を、み光の大神様とたたえまつれと申してあろが。 大神様の一つの現はれぞと申してあろうが。(月光之巻 第十九帖)



このように啓典の民・イスラーム・仏教と色々と打たせていただきありがたく、また大変勉強なりますが、

神示(聖典)をマコトに実践せず読まないものに対しては、“別の問題が発生する”のでございます。

ゆえにその間違った前提から間違った疑問、問題が発生するのです。

つまり心根によってわざわざ自分から問題を作っているという事なのでございます。


限られた範囲(固定観念)に神示を押込めたいようでございますが、前提が異なっておりますから何度も打たなければなりませんが、ひふみとはユダヤ教、キリスト教、イスラームだけを対象にしているのでございません。

三千世界、霊肉合わせ動植鉱物総てのうれしうれしのためにある御神示でございます。

ゆえにそのような意味からも一人でも声を出して読んでくだされよ、と神示にはあるのでございます。


神示には“日月神示で八通り”という意味で捉えている方もおられますが、

ひふみ神示で御魂相当に八通り”と観てくださればよいと存じます。

つまり御魂の掃除洗濯も含め段階によって解釈が変わるという示唆でもあるのです。

ゆえにハラの掃除・選択第一とあるのでございます



此の神示八通りに読めるのぢゃ、七通りまでは今の人民でも何とか判るなれど八通り目は中々ぞ。(ウミの巻 第十五帖)


ましてこの神示は八通りに読めるのであるから、いよいよ判らん事になるぞ。(竜音の巻 第十二帖)


御魂相当に応じて開かせていただける、ゆえに御魂を磨きなさいといふ含みがあるのです(十善を基に五つの働きを正しく発揮し霊肉掃除・洗濯第一)。

下記帖にもございます。



 神に目を向ければ神がうつり、神に耳向ければ神がきこえ、神に心向ければ心にうつる、掃除の程度によりて神のうつりかた違うぞ。掃除出来た方から神の姿うつるぞ、それだけにうつるぞ。六月十九日、ひつくのか三。(上つ巻 第十帖)



真剣に求め理解しようとする感謝、心がけが無いならば上記も猫に小判等となり意味はないのでございます。拝



参考までに、このような資料もございます。


<引用ここから>

 神の任命を受けたクルアーンの教え手である聖預言者は、「クルアーンには美しく心地よい外面と深い内面が存在する」と仰っている。また、「クルアーンには秘められた部分があり、その秘められた部分にはさらに秘められた部分があり、このようにして七段階の秘められた部分が存在する」とも仰っている。

<引用ここまで>




つまり神示は「登り道は違っても頂点はどの宗教も同じ」的な日本人的な馴れ合いの宗教観----たとえば「神も仏もキリストも元は一つぞよ」 (天つ巻第四帖)に顕著な発想です----をベースにしているようです。

イエス、釈迦、ムハンマドの教えは本当は同じ山の頂上を示していて、そこへ至る道が違うだけなどという俗信をひふみ神示も前提にしています。イエス、釈迦、ムハンマドの教義をきちんと理解できない場合このような安易な「どれも本質は同じ」といったごった煮的理解ですませてしまいます。本質は全く違います。イエスとムハンマドはともに旧約聖書をベースとしていますから共通するものはありますが。



『「イエス様、世尊、ムハンマド様(アッラーの教え)の教義をきちんと理解できない場合」このような安易な理解となるのでございます。』と打たなくてはならない不毛な内容でございます。
色々知っておられるご様子勉強になります。拝

(世の乱れから正法が廃れ偽律法学者等に改竄等された事も含め観ないとならないのです)


ゆえに足元を観なさいと神示は説いているのでございます。

(大陸、言語、人種、文化、民族等がバラバラであっても一つの地球に我々は住んでいる)

それぞれの順序・段階があるのです(既にこれも上述させていただきました。感謝)。

至る道は霊肉うれしうれし歓喜の世。

(無論、それぞれの御魂の段階により異なると存じます)

生まれ赤子心で神示を拝読されればミチは一つだと得心なさるでしょう。



此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。(アメの巻 第一帖)


ひふみ神示は霊肉うれしうれしの中行くマコトのミチだといふ事なのです。




「ひふみ神示」の次の言明

「仏教もキリスト教も回数(ママ)もみな方便でないか、教はみな方便じゃ」 (月光の巻第43)

「九分九厘でリンドマリぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍も十もすっかり助けると申してあろうがな」(至恩の巻第一六帖)

「神は一時は仏とも現れたと申してありたが仏では、もう治まらん、岩戸が開けたのであるから、蓮華ではならん」(紫金の巻第七帖)

は重大です。

この文脈での方便は究極の教えではなく、現在は通用しない教え、暫定的な教えと解釈できます。モーゼの神もイエスの神もアッラーもその教えをそのような意味の方便だとは絶対に認めないでしょう。



既に打たせていただきましたが、世の争い諍いからも観ましても、その時代時代の教えだと得心されたと存じます。

さらにコーランから下記を御覧下さい。



<引用ここから>


汝ら、邪宗徒の女を娶ることはならぬ、彼女らが信者になるまでは。信仰ある女奴隷の方が(自由身分の)邪宗徒の女にまさる、たとえ汝らその女がいかほど気に入っても、また汝ら、女どもも邪宗徒の男の嫁になるでないぞ、相手が信者になるまでは。信仰ある奴隷の方が、邪宗徒の男にまさる、たとえ汝らその男がいかほど気に入ろうとも。


それから泥棒した者は、男でも女でも容赦なく両手を切り落としてしまえ。それもみな自分で稼いだ報い。アッラーは見せしめのために懲しめ給うのじゃ。アッラーは全能、全知におわします。


だが、(四ヶ月の)神聖月があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待伏せせよ。しかし、もし彼らが改悛し、礼拝の務めを果たし、喜捨もよろこんで出すようなら、その時は遁(に)がしてやるがよい。まことにアッラーはよくお赦しになる情深い御神におわします。(コラーン「改悛」 五節)


<引用ここまで>



ここからもある時代、段階の教え、そして地域の教えと存じます。

現代の世でこのような事をすれば世が乱れるでしょう。

ですから“行っていない”のです。

行っていない(先進国等でも行えないでしょう)といふことは“その時代、地域の教え”ということなのです。

また現在は生贄(神心に適わない共感性の無い殺生<犠牲:旧約にもございますが>をするといふ心根が社会システムに反映する。ならば我々が苦しむことに繋がるのです)も含め過去の教え(律法等)のままにすれば世は乱れる。

(*また時代の施政者<律法学者>等により聖書の意味合い等も改竄されてきた)



因みに生贄等についての本当の意味(「己を神に捧げ玉串とせよ」)は旧約聖書にございます。


8:13 彼らは犠牲を好み、肉をささげてこれを食べる。しかし主はこれを喜ばれない。今、彼らの不義を覚え、彼らの罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰る。(旧約 ホセア書)



1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。(旧約 イザヤ書)




また慈愛慈悲深い神にはなにも問題はございません。

(モーセ様、イエス様、ムハマンド様も分かりやすい表現では高位の存在、天使等を中継して同一から発しているのです。クアラーンにはそれについてさまざまな表現もございます)

何事も問題を作る人たちの捉え方(ハラ)、表現の仕方がわざわざ問題を作っているのです。非常に勉強になります。拝


究極の教えならば争い(騙し殺し)は起こるはずはなく元神を中心として祭りあっている霊肉うれしうれしの世でございましょう。




◇天皇制との関連

ひふみ神示の内容は本質的に天皇制とつながりやすく極めて危険です。神示には世界を治めることになる「てんし」の言及が何度もあります。 一部の「ひふみ神示」関連の普及本の著者は明確に昭和天皇を賛美しています。日本を特別視して選民扱いしているのも気になります。国家神道 (右翼系の神道も)の恐ろしさはの大戦で明らかになりましたが、またぞろ復活されてはたまりません。



他でも打たせていただいた気がしますが、歴史を知っておられるならばこのような事は打てますまい。

「この内容、考え方が極めて危険かもしれません。」と、これもこのように返さなければなりません(そう思っているだけで事実はどうでしょうか)。

天皇制、昭和天皇に対して良いイメージをお持ちではないご様子(書籍「天皇のロザリオ」等にも色々書いてございますが)。

ただ現在も霊肉土台の無く戦争を真に反省していない世ではこのように監視する心構えは大切とも存じます。

(拝金教、カルト団体等、現在の世の状況も含め日本を乱し工作しているヤカラも裏におられる始末でございますから)


既知な内容でございますが(フリーメイソン等の暗躍、操られた等色々ありますが割愛)下記を御覧下さい。

『八紘一宇』の意味を歪曲し、さらに“天皇制”が利用されたという事なのでございます。

(また天皇とは本来“このような意味ではない”のです)

それと神示をつなげ、レッテルを貼るとはあまりにも失礼であり詭弁でございましょう。

でありますから念のために大本教、天理教等についてもたせていたきますが戦争を反対し逆の立場をとってきたのでございます。

(大本・天理等はあの時代、いろいろな経緯がございますが弾圧をされたぐらいなのです)

ここからも関わりがないことが分かるでございましょう。



<引用ここから>


日中戦争から第二次世界大戦まで、大日本帝国の国是として使われた。戦後にはGHQ占領期には神道指令で、国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における使用が禁止された。


由来

日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した田中智學が1903年(明治36年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味で、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘[2](あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から「八紘一宇」としたものである。


本来、「八紘」は「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。


(中略)


八紘一宇の説明として、日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」[3]、としている[4]。また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」[5]と説明されている。


(「八紘一宇」ウキペディアから引用)


<引用ここまで>




* ひふみ神示では日本民族を優れたものと見なしていますが、そもそも日本民族などどこにもいません。遺伝学的検証によれば中国、朝鮮方面や南方、北方からの混血雑種がいるだけです



最後の内容でございますが、50の質問に答えたような感覚でございます(大変勉強になりました、ありがとうございました。拝)。

ただ内容的にある方面の方がよく好む発想、どのような思惑、意図から打たれたのか分かりかねますが(このような内容が何故か“グーグル検索上位”にございました)。

はたしてその方達?は神示を御読みになられたのでしょうか。


それでは、まず民族の定義とは、

人種・原語・文化などの観点から見て、一まとまりであるとされる人びと。

上記からも分かるように素晴らしい日本語があり(最先端の技術、高度な文明を構築できる大和言葉)、知識の上でも何千年以上(それ以上ですが)日本民族とはいるのです。

十二支族の源流等も含め、さらに“逆の流れ”も霊肉考察できるでしょう(ゆえに理窟・学ではないのです)。


また地球、日本に住ませていただき大和(ヤマト・イズモ)言葉を話しているコト自体にも意味があるのでございます。

霊肉御恩感謝を知る大和魂を持つ素晴らしい民だと存じます(世の霊肉調和・繁栄に少しでも御役立ち自負できるようになればよいと存じます。拝)。

ですがそれは日本のみではなく、内容的にも世界の民のコトでもございます。ですから「神示を御縁ある世界の方々に広めてくだされ」等とあるのでございます。拝


このような事実も念のために。

極東の小さい島国が世界を相手に“戦争をさせられ”(日本のスコタンどもが暴発する隙があった、またヒロポン等も使用されていたことをお知りください)、敗戦後六十年ほどで世界有数の先進国となり、産業技術等も世界屈指でございます。

また殺し合いを起こし起こさす外国に比べ、無論霊肉売国奴も国内に残念ながらおりますが日本は途上国等に対して智慧・汗を流しライフライン等の支援も行っている。

どのような理由(ですが神仕組)にしても殊に世界に誇れる平和憲法九条等があり、その志を守ろうとする国でございます。

そして平面的(唯物論的)なものの観方だけではこの国の凄さはわからないのでございます。

至る所に神社がたくさんあるでしょう(このような観点からも神・霊肉感謝御恩を知る素晴らしい民族なのです。拝)。





以上でございます。
長文御読みくださり心より御礼申し上げます。
このような内容は神示を実践する方々にとって大変な障害、邪魔になるのでございます。
取違い勘違いでも、“疑う念が邪念をウミ(膿)”御神業の妨げとなるのでございます(理窟・学ではなく邪念が一番の邪魔なのです)。 妨げとなるならば、我々が霊肉苦しむ事に繋がるのでございます。
ひふみ神示を信奉なさる方々の心がうれしうれし澄み渡れば幸いと存じます。拝

また残念ながら悪い意味でこの内容を知ったかで影響(利用)されている人もおられますが、“たくさん色々と勉強させていただけるといふ心構えで読ませていただければ”恐縮ながらうれしうれしと存じます。

まずはひふみ神示を御読みくだされば幸いと存じます。拝


念のため再度警告として打っておきます。
このような事で聖典等を利用してはなりません。

(結果、読みもせず利用しているのです)

“このようなコトの為に”神典、聖書、聖典等はあるのではございません。


当方も禊祓い、三大実践等を日々させていただき精進でございます。

御読みくださりありがとうございました。
かむながらたまちはへませ、いやさかましませ。拝



 世界を一つにするのであるから、王は(秘答理)(ヒトリ)ぢゃ。うごぎは二つとなるなれど、二つでないとうごかんのぢゃ。キはキのうごき、ミはミのうごき、うごいて和すのぢゃぞ。和すから弥栄ぢゃ。和せば一つぢゃぞ。キミとなるのぢゃ。そなたは自分と他との境界をつくってゐるなれど、境界つくってはならんぞ。境界をつくらずに、おのづからなる自他の別を生み出さねばならんぞ。世界一家のやり方 間違えて御座るぞ。それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、ミコト(実言)は一つと申して知らしてあろうがな。大難は小難にすること出来るのであるが、無くすることは出来んぞ。不足は不足をうむぞ。そなたは口をつつしめよ。そなたは一度 神をすてよ。神にしがみついてゐるから、小さい囚われた、ゆとりのない神を、そなたがつくり上げてゐるぞ。信ずれば信ずる程 危ないぞ。大空に向って大きく呼吸し、今迄の神をすてて心の洗濯をせよ。神を信じつつ迷信におちてゐると申してあること、よく心得よ。(月光之巻 第五十一帖)



 天地(てんち)不二、神人合一。天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり、不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり、人は神なり、一体なり、神人なり。神、幽、現、を通じ、過、現、末、を一貫して神と人との大和合、霊界と現界との大和合をなし、現、幽、神、一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。(ア火バの巻 第三帖)