各補足資料等


・コーラン口語訳の『はしがき』等について


<抜粋ここから>

一 この『コーラン』口語訳にはいわゆるフリューゲル版(Conani textus arabicus, ed. G.Flugel, ed. III, Lipsiae 1869)を底本として用いた。これは当時ヨーロッパきっての碩学(せきがく)として令名のあったグスタフ・フリューゲル(Gustav Flugel)が厳密な校訂(こうてい)を加えて一八四一年に初版を出した最初の学術的テクストであって、今日に至るまで『コーラン』研究の基礎資料として西欧の学界にひろく使用されているものである。『コーラン』は、本文の字句の異同のほかに、各章ごとの節の分け方においても版によって大きなひらきがあって、例えば「第何章第何節」などと言っても、どの箇所を指すのか明瞭でない場合が非常に多い。今日、学術上の目的で『コーラン』の文句を引用する場合は、このフリューゲル版の番号付けによることになっている。


(中略)


一 『コーラン』は回教徒にとって何ものよりも尊い聖典であるから、古来その註釈は殆ど無数に作られており、各学派、各学者によって語句の解釈に大変な差異がある。この口語訳は、原則として、ザマシュリー系統の代表的な註釈であるバイダーウィー(al-Baidawi)のAsrarat-tanzil wa-Asrar at-Ta'wilによって全体の基調を決定した。バイダーウィーは西暦十三世紀のコーラン学者、その註釈は回教の正統派(スンナー)では最上のものとし非常に尊重されて来たものである。しかしこの注釈書も、十九世紀以来長足の進歩をとげたアラビア文献学の今日の知識水準から見ると、無数の欠陥を蔵しており、すべての点についてこれに盲従することは到底不可能である。かくて、本書にはネルデケ(Naldeke)以後のヨーロッパのアラビア学の成果が随所に活用されている。しかし全体的に言って、いかなる場合にも、あまり大胆すぎるような仮説は採用せず、できるだけアラビア語を良識的に、平易に、解釈するよう努力したつもりである。



改訳の序

 この改訳は部分的な改竄(かいざん)ではなく、想を新たにして全部訳し直したものである。一番大切な問題である文体を、口語の枠内で徹底的に改めたのは勿論であるが、それだけでなく、今度アラブ諸国、特にエジプトのカイロで斬界の権威とされる多くの碩学と論議して得た新しい知識を基にして、語句の解釈も多く改めた。自分の理想とするところにはこれでもまだ遥かに遠いが、しかし或る程度の改良はできたと思う。

(中略)

 なお附記するが、『コーラン』本文につき、最近とみにカイロ版の句分け、番号付けが学会に流布しつつある事実にかんがみ、フルューゲル版と喰い違いのある場合にかぎり両方の番号を併記することにした。従って、例えば、五二[五三]とあれば、フリューゲル版では第五二節、カイロ版では同じ個所が第五三節に当るという意味である。

<抜粋ここまで>



<抜粋ここから>

そして一九六〇年代初めの二年間にロックフェラー財団の招きによって中東、ヨーロッパ、アメリカを歴訪したことを契機に、各国の学会から高い評価を受け、一躍国際舞台に登場するようになった。

<抜粋ここまで>




・三三章「部族同盟」の前後の文脈

訳書「コーラン」「聖クラーン」の二書より抜粋


<ここから抜粋>

『コーラン』 三三章「部族同盟」

37 アッラーの祝福を受け、汝(マホメット)にも可愛がられたあの男(その名をザイドと言い、もとマホメットの奴隷だったが、後に解放されてマホメットの養子となった)に汝が、「自分の女房は大事にしておおき(離婚しない方がよい)。アッラーを懼(おそ)れかしこまなくてはいけない」と言った時のこと。あの時汝は、いずれアッラーが発(あば)いておしまいになる気持をそっと胸に秘めておった(ザイドの妻ザイナブは美しい女。マホメットは一目見て惚れ込んでしまった。忠実なザイドはそれを知るや、離婚して妻をマホメットに譲ろうとした。マホメットは心中ひそかに喜んだが、醜聞になることを恐れて、一時はザイドの離婚を抑えようとしたのである)、他人の口の端にのぼるのが怖わさに、アッラーを怖がることこそ本当なのに。

 それはとにかく、ザイドがさっぱりと彼女のことを済ませてしまった(完全に離婚の手続きをとってしまった)ので、我らは彼女をお前の妻にしてやった。これは一般に信徒らが、自分の養子の女房でも、完全に用が済んでしまったものであれば自由に(妻にして)よろしいという(規則)を作りたいと思ってしたことであった(これは、マホメットがザイドから女房を取り上げたという非難にたいして、それには正当な理由があるという主張である)。何事によらず、アッラーの命じ給うことは実行せねばならぬ。

 38 アッラーがせよと仰しゃったことであるからには、何もムハンマド(マホメット)に咎はない。過ぎた昔の人たちに対してもアッラーはいつもこのようにして来られた。アッラーの御命(みこと)はもはや動かせぬ運命となる。 39 みな(前節の「昔の人たち」を受ける)アッラーの御託宣を世に伝える役の人たち(マホメットのような預言者たち)、アッラーだけを懼れ、そのほかの何物も懼れることのない人たちであった。まことに、勘定をつけるのはアッラーおひとりで他はいらぬ。

 40 ムハンマド(マホメット)はお前たちの誰の父親でもない(預言者は宗教上その宗団の「父親」であるが、それは肉親の意味での父ということではない。だから誰の妻を譲り受けても悪いわけはない、本当の父は息子の嫁を絶対に自分の妻にすることは許されなかった)。もともとアッラーの使徒であり、預言者の打留(うちどめ)であるにすぎぬ。まことに、アッラーは全知におわします。

(中略)

49 これ預言者よ、我らが特に正当なものとして汝に許したのは、まず汝が正式に金を払った(前出、結婚に際して男の方から女の方に一定額の金を支払う)妻、次にアッラーが戦利品として授け給うた奴隷女、父方の叔父の娘に父方の叔母の娘、母方の叔父の娘に母方の叔母の娘などで汝と一緒に(メッカから)移って来た者、それに、自分から預言者に身を捧げたいという信者の女があって、預言者の方でもこれなら嫁にしていいと思ったなら誰でもよろしい。但しこれは汝(マホメット)だけの特権であって、一般の信者には許されぬ。 50 妻および奴隷女に関して、彼ら(一般の信者)に与えた規定のことはわかっておる(お前にこんな特別扱いしたからと言って、一般信者の規定を忘れたわけではない、という意味。その一般信者の規定は「女」の章に述べてある)。これは汝が非難されてはいけないと思っての処置である(マホメットは非常に多くの妻妾を蓄えていたので、「女」の章などの規定だけに照らすと非難されねばならなくなる)。まことに、アッラーは実に気のやさしい、慈悲ぶかい方。

 51 彼女ら(汝ーーマホメットーー妻妾)のうち、どれでも汝の意のままに延期し(妻妾が何人あっても、不公平にならぬように順をきめておいて一晩ずつ男は廻って行かなくてはならぬ。ここではマホメットだけは特別で、気の向かぬ女のところへはいつまでも行かなくてよい、というのである)、またどれでも気に入った者を引き寄せるというふうにしてよろしい。一時遠ざけた女でも、また欲しくなったら、それはそれで差支えない。その方が結局女達も気持ちよく、くよくよせずにすむからかえってよい。一人一人がみんなお前から受けるもので満足することにもなろうというもの。アッラーはお前たちの心の底まで見抜いていらっしゃる。まことに大層なもの識り、大層なわけ識りにおわします。

 52 だが汝(マホメット)も今後はもう(これ以上)の女は御法度である。また、いかに素敵な美人が出て来ても、それを(現在の妻)と取替えたりしてはいけない。と言っても勿論、自分の女奴隷だけは論外だが。アッラーはどんなことでも監視していらっしゃる。

<ここまで抜粋>



<ここから抜粋>

『聖クラーン』 三三章


37 アッラーの恩恵を賜わり、またなんじが親切をつくした者に「妻をおまえのもとにとどどめ、アッラーを畏れよ」と、言ったときを思え。 だがなんじは、アッラーが暴露しようとされた、己れの胸の中に隠していたことを、人の口のはにかけるのを恐れた。 むしろなんじは、アッラーを恐れるのが本当であった。 それでザイドが、かの女について必要なことをすませたので、われはなんじをかの女について必要なことをすませたので、われはなんじをかの女と結婚させた。 これからは信者が、必要な離婚の手続きを完了したときは、己れの養子の妻でも、さしつかえないことにした。

アッラーの命令は完遂しなければならぬ。

38 預言者が、アッラーの命令したもうことを行うのは防げない。 これはなんじ以前の者に対するアッラーの慣行である。 アッラーの命は、動かせぬ定めである。

39 アッラーのお告げを伝える者たちは、かれを恐れ、アッラー以外の何ものをも恐れぬ。 アッラーは清算者として万全であられる。

40 ムハンマドはなんじら人びとの、何人の父でもない、もともとアッラーのみ使いであり、また諸預言者の最後者である。 まことにアッラーはよろずのことの全知者であられる。

(中略)

50 予言者よ、われがなんじの妻として許した者は、なんじの婚資を与えた妻たち、また捕虜としてアッラーがなんじに賜った、なんじの右手の所有する者、またなんじの父方のおじ、およびおばの娘たち、またなんじの母方のおじおばおよびおばの娘たちで、なんじと共に移住して来た者、ならびに女の信者でその身を予言者に許した者である、もし予言者がこれと結婚を欲するならば許される。 これはなんじのみで、他の信者たちではない。 われは、なんじに対し罪にならぬため、信者の妻、およびその右手の所有する者について、かれらにわれが決めたことを、知らせておいた。 アッラーは、寛容者・仁慈者であられる。

51 なんじは妻たちのうちの、欲する者を去らせ、欲する者を受け入れてもよい、またなんじが退けていた者を召しても罪はない。 これはかの女らを喜ばせ、その心の憂いを解き、またなんじが各自に与えるもので、満足させるため最も妥当である。 アッラーはなんじらが胸にいだくことを知りたもう。 アッラーは、全知者・大度者であられる。

52 なんじはこのあと、たとえその美ぼうがなんじの気をひいても、女をめとることもまた妻たちを取替えることも許されない、ただしなんじの右手が所有する者は別である。アッラーはよろずのことを監視したもう。


註釈等:アッラーはアル(小さい「ル」)ラー。ムハンマドはムハム(小さいム)マドと表記されている

<抜粋ここまで>


註釈:右手が所有するとは当時の奴隷の事




・最後の預言者等のハディース内容

ハディース(下記は『古来最も権威あるものとされているアル・ブハーリーの伝承集(資料より引用)』)は、クアラーンにある節にハディース(伝承・言行録)を照らし合わすという形もとっている。他にもムハンマド様を神聖化する内容等も興味深いと存じます


「傑出した者達」


一七 神の使徒の名前について。 ――いと高き神の言葉「ムハンマドはお前たちの誰の父親でもない……」(三三の四〇)――「ムハンマドは神の使徒。彼に従う者は異教徒にきつく……」(四八の二九)――「マルヤムの子イーサがこう言ったときのこと、『イスラエルの子らよ、わしはアッラーに遣わされてお前たちのもとに来たもの。わしより前に啓示された律法を確証し、かつわしの後に一人の使徒が現れるという嬉しい音信(おとずれ)を伝えに来たもの。その名はアフマド』と」(六一の六)


 (一)ジュバイルによると、神の使徒は「わたしは五つの名を持つ。わたしはムハマンドであり、アフマドであり、アッラーの命により不信仰者を抹殺するアル・マーヒーであり、復活の日に人々を集める者アル・ハーシルであり、そして預言者達のうちの最後の者アル・アーキブである」と言った。


 (二)アブー・フライラによると、神の使徒は「アッラーがわたしからクライシュ族の悪口と呪いを反らして下さるのを見てあなた方は驚かないであろうか。彼らは侮辱に価する者(ムザンマム)を罵倒するが、このわたしは称賛に価する者(ムハンマド)である」と言った。


註釈:『六一の六』の内容である。新約聖書に“ムハマンド(Ahmadアハマド:讃えられた者)”と予言されていたとイスラームは主張する。他にも『Paraclete:慈悲者(慈悲)』(Q21-107)もムハンマド様にあたるといふ註釈もある。


一八 預言者のしめくくり。

 (一)ジャービル・ブン・アブド・アッラーによると、預言者は言った。「わたしと過去の他の預言者達との関係は丁度次のようである。或る人が家を建て、きれいに仕上げたが、一箇所だけ煉瓦を積み残した。そこへ人々が入って来る感心してから『もしこの一つの煉瓦の積み残しがなかったならば、完璧であろうに』と言った」と。


 (二)アブー・フライラによると、神の使徒は語った。「わたしとわたしより前の預言者達との関係は次のようである。或る人が家を建て、美しく仕上げたが隅の一箇所だあけ煉瓦を積み残した。そこへ人々が見にやって来ると、感心してから、『なぜこの一つの煉瓦だけ積み残したのか』と言った。わたしはこの煉瓦に他ならず、わたしは預言者達のしめくくりなのだ」と。




「預言者達」


四八 「またこの啓典の中でマルヤムのことも述べるがよい。彼女が家族と別れて東側の場所に引籠り……」(一九の一六)


 (二)アブー・フライラによると、神の使徒は言った。「天を飛行した夜、わたしはムーサに遇ったが、(前略)イブラーヒームも見たが、わたしは彼の子孫のうちで最も彼に似ていた。



註釈等:イブラーヒームとは旧約聖書のアブラハム様。非常に興味深いハディース。これらも現在も様々なタネとなっている。


四九 マルヤムの子イーサの再臨。

 アブー・フライラによると、神の使徒は「わたしの魂がその御手のうちにある神にかけて、やがて汝らのうちに必ずマルヤムの子が公正な審判者として下り、十字架を壊し、豚を殺し、人頭税を廃止するであろう。そのとき、富が満ち溢れるので、誰もそれを得ようとせず、この世とそこにあるすべてのものよりも一回の跪拝(きはい)の方が勝ると思うであろう」と言った。


註釈:マルヤムとは聖母マリア様。クアラーン「Q5:17」等も勿論だが「傑出した者達 一七の一」と照らすと興味深いと存じる




「神の唯一性」


三三

 アブー・ザッルによると、預言者は「或る日、天使ジブリールがわたしのもとへ来て『アッラーの他に何者も崇めずに死んだ者は天国に入る』という嬉しい知らせを伝えたとき、『盗みを働き、姦通を犯してもですか』と尋ねると、彼は『盗みや姦通を犯してもだ』と答えた。


註釈等:ただこのように伝承等には異なった内容もあると存じます。戒律ではなく行為・行動(内実)が適っている者(御心)でないと無理なのでございます。鍵は鍵穴にキチンと入らない鍵ならば扉が開かない。理窟・学ではなく暗く低い振動は高い光には入れない。水には錘を持っては浮かないのでございます。




・無道(異教)時代について

良い機会ですので序でにこれらも抜粋させていただきます。


現代の我々(日本、西欧)が見れば残酷と感じられるかもしれません。ムトア(一時婚)、一夫多妻等もあり男尊女卑的(男性優位)な内容と思はれるかもしれません(どの世界にも云へることでございますが、当時の風習・慣習(悪習)などは残っており、その文化地域に住んでゐる人々はこれが当たり前でスタンダートだとも思っているのです)。
様々な資料にもございますが、異教時代のアラブでは“このような状態、状況、文化背景等があり、その環境でイスラームが布教されたのだといふ事を知っておく必要があると存じます(旧約の“十戒が下される前”の内容も御覧下さい。このような感覚がその地域では普通だったのです。一夫多妻等については「創世記30:3等」も参照)。

沙漠という苛酷な環境であり、血族、同族意識が元々強い文化背景等を持っている。

(この背景と“『イスラームの変遷』を見比べてみる”のも参考になると存じます。またムハマンド様が亡くなった後(Q5:106 「遺言の書」1:3-4等)、イマーム(指導者)が暗殺<毒殺>等をされ、アラブでは再び血族・同族意識・王権が復活した背景もこれに合せ考慮に入れないとならないと存じます)


日本、西欧のように環境的に水がいくらでも在り、穀物もいくらでも作れるといふ環境ではない

(また一四〇〇年前の話でございます。日本では刀を振りまわしチョンマゲをした江戸時代でもまだ400年前です)


<引用ここから>

しかしベドウィンたちが、こういう徹底的な人情味を見せるのは、ただ自分の部族の中にいる時だけに限られていた。同じ血を分けた家族、同部族民、友人、客人に対してはどこまで情が厚いかわからない彼らなのに、一旦部族の圏内を踏出して、異部族に向うやいなや恐るべき悪鬼に変貌してしまうのだ。ここではもはや愛も人情もありはしない。ただ在るべきものは忿恚(ふんい)と憎悪ばかり、暗い狂激な野性の情熱が溶岩のごとく沸きたぎる。



 血の復讐が神聖な義務であるということは、その情熱的狂信的生活を仮に無視して知的に把握しなおしてみれば、要するに「悪に報いるに悪を以ってせよ」というモラルにほかならない。そして事実、当時のアラビア沙漠では、これが至高の武人道徳だったのである。悪に悪を報いないのは卑劣だった。殴られて殴り返さないのは人でなし。右の頬を撲たれて左の頬まで指出す奴は大馬鹿野郎だ。相手がこちらの上衣を奪おうとしたら、学に相手を素裸にはぎ取ってしまうがいい。それこそ男だ。それでこそ立派なベドウィンだ。


(中略)


 無道的アラビアの倫理と、イスラーム倫理の鋭い対立がここにもはっきり現れている。マホメットの興した宗教は、かくも革命的性格を帯びていた。それは沙漠的人間の在り方そのものに、彼の世界観・人生観・倫理観に、無条件で百八十度の旋回を強要した。

<引用ここまで>


註釈等:悪といっても“部族の価値観たる悪”の事である。部族の者が殺されたならば、その部族の者と同等の者を殺すか、賠償金(物)の解決法もあったそうだが、互いが全滅近くなるまで復讐し争い(殺し合い)を起こしていたと他資料にもある

血族意識についての一つの傾向として念のために。ムハンマド様の時も同じく他の教友たちと血族で固められ、ある意味においてそれを活用していたと存じる(最愛の妻アーイシャ様の父上アブー・バクル様が初代カリフ等)。最初の妻ハディージャ様(この女性がおられなかったらイスラームは成立しなかった)との娘ファーティマ様とアリー様(ヒジュラ含めての活躍、少数派であるが英雄的指導者)が御結婚なされ、その子供達で世襲的に派を形成(*ただ他資料にあるように「血族意識、同族、同胞意識を超えて」、といふ理念がイスラームにはあるとされる。このような経緯からも参考になると存じる)



また奴隷というのもあり、このような非道な事が日常当たり前であった事もお知りください。


<資料ここから>

今日の私達には全く想像を絶することであるが、イスラーム以前のアラビアにおいては、奴隷というものは人間ではなく、せいぜい動物のような主人の所有物で、ただひたすらに主人に仕え、生きるも死ぬも全く主人の意のままであった。

<資料引用ここまで>



<引用ここから>

ジャーヒリーヤ(異教的精神)時代の思想的状況


復讐の最も正規な形は、加害者自身が彼の行った殺人行為の償いとして殺されるということである。しかしこれが実行されることはむしろ稀で、普通は加害者の部族の誰かを身代りとして殺すという方法がとられた。そこで復讐を行う側にとて重要となるのは、加害者の部族のうちで、地位および名声の点で殺された者とほぼ同等の者を探し当てることであった。しかし、それを評価する際、自らの部族への誇りの感情から、往々にして同族の者を過大視する一方、相手の部族の者は過小に、さらには全く価値の低いものとみなす傾向がある。その結果、過度の報復が屢々(しばしば)行われるよになり、それはさらに戦まで発展して、いつ果てるともなく続き、双方がほとんど壊滅寸前にいたるまで痛手を受けた後、争いはようやく止むのであった。


(中略)


ムハンマドは敢(あえ)てこの部族的連帯性の原理を廃棄(はいき)し、それに代って、血縁によってではなく、共通の信仰によって結びつく人間の新しい関係を可能にする一神教としてのイスラームの原理をうち立てた。すなわち、イスラームは、社会のあらゆる階層の人々の間に、信仰によって結びつく、これまでのアラブの間で全くみられたなかった新しい兄弟の関係を定め、以後これが最も重んぜられるべきことを宣言した。つまり、イスラームによれば、人間にとって重要なのは、部族の中でどのような高貴な血統に属しているか、ではなく、一個の人間として神に対してどのような態度をとるか、すなわち信仰なのである。ここでもし高貴さということを言うとすれば、真の高貴さとは、ジャーヒリーヤ時代の人々がこの上なく大切にしていた血筋のよさや、もてるものを人に惜しみなく与える気前のよさではなく、刻々と迫る世の終わりと最後の審判を常に自覚し、神を怖れて敬虔(けいけん)に生きることにあるのである。

<引用ここまで>



上記資料のようにイスラームは異教(またはジャーヒリーヤ:異教的精神)時代と云われていたアラブ地域に大革命を起こし秩序・安定を作り出したと云われております。下記はクアラーンよりの一節。



<引用ここから>

Q17:31-38


 31それから、お前たち、貧乏を恐れて自分の子供を殺したりしてはならぬ(前出、古アラビアでは女の子を埋め殺す悪習があった)。我ら(アッラー)が養ってやる、子供たちもお前たちも。子供を殺すとは、まことに、もってのほかの罪悪であるぞ

 32それから、姦通に近づいてはならぬ。これは実にいまわしいこと、なんと悪い道であることか。

 33それから、正当な理由なくして人を殺してはらぬ。人殺しはアッラーの御法度。誰か、不当に殺された場合は、その後継ぎの人間に(報復の)権利を認めておいた。と言うて

むやみやたらに殺すことはならぬ(報復にも限度がある)。必ず(神の)御加護がある。

 34それから、孤児の財産(を管理している場合)、その子が成人に達するまでは、よほどしっかりした口でもないかぎり、それに手をつけてはならぬ。総じて、契約は履行しなければいけない。契約では必ず(審判の日)訊問されようぞ。

35それから、量り(売りする)場合は、量目をたっぷり量るよう。目方をかける時には正しい秤を使うよう。その方が立派だし、それに結局その方が得になる(来世では立派な報酬がいただけるから)。

36それから、自分に知識のないものを追い廻さぬよう。耳で聞くこと、目で見ること、心(で思うこと)、こういうもの全部について訊問されるから(最後の心配の日に)。

37それから、地上をあまりいい気になって濶歩(カツポ)するではない。別にお前に大地を裂くほどの(力がある)わけでもなし、高い山々の頂上まで登れるわけでもあるまい。

38 以上すべては、神様からお目から見て、実に憎むべき悪事。

<引用ここまで>


異教(無道)時代(1400年前)を背景として、ムハンマド様は“悪習(報復も含め)”を指摘し、アッラーの御教えを説かれた。



下記も御覧下さい。『聖クラーン(訳書。因みに“アラビア語以外のコーランは聖典とはされず”解釈書とされている)』からの引用でございますが、現在は“このような教え(ジハードも防衛的・またシーア派では「大ジハードは己との戦い(『神に近づく為の内面的努力<資料より>』」)”となっております。

(スンナ派、シーア派等で註釈も異なりますが、ハディースも含め恐縮ながら神心に適うためにあると存じます。拝)



<引用ここから>

ムスリムは戦争の場合と同様、日常相手が誠実であれ以上、かれらに対し誠実でなければならない。敵が攻撃するまでムスリムは戦ってはならぬ。同様に協定に違反するのもまず敵がわである。公私の日常生活上、ムスリムと非ムスリムを区別せず、あらゆる義務を完遂することをその神聖な務めとする、イスラーム道徳の基本的特徴である


(聖クラーン 第九「悔悟章(タウバ)」 註釈五)

<引用ここまで>



<引用ここから>

「剣かコーランか」とイスラームは武力によって布教されたかのように宣伝する者があるが、元来 (イ)宗教は信仰と自由意志によるべきで、およそ強制は意味はない。 (ロ)真理と迷誤が明示されて、善意の人には信仰の基礎が理解できるので強制の必要はない。 (ハ)神の保護は無尽で、人びとは暗黒から光明に向かって、剣とはいささかの関係もなく不断に導かれている。


(聖クラーン 註釈より)

<引用ここまで>



ただ恐縮ながら念のためにここは細かく打たせていただきますが、“なんでも信仰の自由ではない”のでございます(ミチの実践<神の入れ物>が神心であり、戒律(人が作った戒律もあるのです。ゆえに道理への照合の必要性)ではなく人(まして神の御心を知らなくてはならない信徒)なのですから当たり前に相手への労わり・共感性で知れる<感じる>でしょう。そのようにしないならば内実が損なわれているのですから当初はカタチだけは従っていても、次第に“その心根の行為・行動”から争い諍いを起こすでしょう<王制等が蔓延り、カリフ制度も崩壊している>。このような点からも“心を使う霊性の発展<直感智含め>こそが神心”なのでございます。拝)。

道理(歓喜)が備わってはじめて信仰の自由となるのです

(十悪を起こし起こさせる信仰の自由ならば悪自由となり、我々世界市民・動植鉱物が霊肉争いを絶え間なく起こし起こさせ苦しみ殺されるでしょう。イマの世はどうでしょうか)



引用させていただいたようにイスラーム諸国はアッラーの教え(真意)を実践し調和・繁栄し“他国に争い諍いを仕掛けてはいない”。

地域に適った調和・繁栄する宗教だということなのです。

(今の情報インフラも整った段階で争いでもし広げるならば神心を無くし世界がさらに苦しみ戦禍の海となる。因みに過去キリスト教を利用し十字軍遠征の暴虐、戦争等が多々ございました。このような事は信仰の基礎すら歪曲し御心に外れたヤカラがしでかしたのでございます)



現在はハード(情報通信の意味も含め)も整い新たな段階に入っているのですから“これからの段階は”、霊肉ともに争い諍いを起こし起こさせるようなコトをするならばもはや元神(神の教え)ではなく、元神を裏切る事なのです。


また得心なさっておらると存じますが、このように時代時代、地域地域、段階段階により教えとは変わるのです。

ですが“モトのミチは一つ”でございます。

(足元の地球は一つ)


このような内容はイスラームの素晴らしさも含め、知識としてもうれしうれし得心なされる事に繋がるならば幸いと存じます。拝




・イスラームの変遷


<引用ここから>

「カリフ」


(前略)

 とまれ時代の推移とともにカリフとしてその任にふさわしくない者がこの地位につき、統治の質を世俗化し、低下させる傾向が強まっていた。格調高い政教一致の統治は、次第に政治が第一、宗教は二の次といった王権的統治に席を譲っていく。

 カリフの質の大幅な低下は、ウマイヤ朝(六六一―七五〇)に端を発している。同朝の創始者ムアーウィヤ、術数たくましくして、勝てば官軍式にカリフの座についた。しかも彼は、後継者に人間的にも問題のあった実子ヤジードを指名して、それまでの公選制に切りかえているのである。これが本来のイスラームの民主的原理にもとるものであることは、いうまでもない。

 施政者のこのような堕落は、当然民衆の政治的態度にも反映された。彼らの間ではイスラームが原理的に克服したはずの同族意識、郷党意識が復活し、政治の世俗化に拍車をかけているのである。世俗的になったカリフは、格調高い為政に支持の基盤を求める代わりに、支配下の有力者たちの援護を求めた。そのために有力者たちは、同族、同郷の士を集めて徒党を組み、イスラームの理念を忘れて派閥意識のとりことなった。世俗的権勢欲にとりつかれた彼らは、この派閥意識を強調することにより、自らの一体化を徐々に損ねていく。

 ウマイヤ朝は、一見ムスリムを一枚岩に団結させていたようにみえても、その実終始反乱になやまされていた。後期になると、財政負担かを軽減するために、異教徒からのみ徴収しうる人頭税を新たな改宗者に課すといった違法をあえてし、そのために致命的な反乱を招いている。

いわゆるサラセン帝国は着実に発展を示しながらも、内的堕落は徐々に進行していたのである。

 反ウマイヤ朝の旗印をかかげて政権を奪取したアッパース朝(七五〇-一二五八)は、国家の最高責任者の任にあたる者が、預言者の家族出身でなければならぬという思想を利用して、民衆の支持をとりつけた。この思想が、イスラームの民主的原理に照らして正しいか否かは別として、この大義はウマイヤ朝の堕落をまのあたりにした人々に対して効力があった。

 この新王朝は内部に種々の矛盾をかかえながらもイスラーム帝国の黄金期を築きあげる。しかし為政の世俗化は着々と進んでいった。王朝設立当初、カリフはアラブの勢力を排除するために、もっぱらペルシャ系の家臣を重用した。しかし次第に権勢を弱め、カリフの座そのものに脅威を及ぼすほど成長したペルシャ人勢力を追い出すため、この王朝はトルコ系の傭兵に助力を求める。しかし十世紀になるとカリフは、逆に彼らの手で傀儡化されていった。軍事力の増大、肥大した官僚機構の維持等が原因で国家財政が破綻する中で、俗権は実質的に他の権力者に奉仕するために利用されるばかりとなった。政権と教権はこのように実質的に分離し、この名ばかりのカリフ制も一二五八年、バグダードをモンゴル軍が破壊した時点で崩壊している。

 その後もファーティマ朝やオスマーン帝国の君主などがカリフを自称しているが、彼らが真の意味で高い宗教的理念に基づき為政を行ったとは認められていない。強大なオスマーン帝国のスルターンも、すべてのムスリムの代表たることを主張して、十九世紀以降自らカリフである点を強調したが、これも信徒たちの共感を呼ぶにいたらなかった。単なる政治的必要のみでは、信徒たちを動員することはできなかったのである。一九二二年にトルコは共和国となり、一九二四年にカリフ制は廃止された。カリフ制復活の運動はあったが、カリフの称号はこの年をもって再び用いられることはなかった。

<引用ここまで>


“イスラーム内、同族同士で争い殺しあっている”、資料によっては異教(無道)時代と同じ状態とも云われております


資料より「現代のイスラーム解説」


<引用ここから>

現代のイスラーム
 登場以降一四〇〇年を経たイスラーム社会は、時代の変遷、推移とともにさまざまな、新たな問題をかかえている。西欧植民地主義の外圧の影響はいまだに甚大であるが、同時に内部の腐敗、退嬰(たいえい)もいちぢるしい。イスラームを口にしながら、少しもイスラーム的でないムスリムたちが、この世界いたるところで大手をふってまかり通っているのである。同時にモロッコからインドネシアに及ぶムスリム国家内のイスラーム、少数民族のイスラームといった区別ばかりでなく、諸地域の文化的特殊性、特異な伝統等さまざまな要因が存在して、現代のイスラームを一括してどのようなものと定義することは至難の業である。

<引用ここまで>




・アラビア語が公用語等


<引用ここから>

ムスリム諸国間の協力


 (k)『クルアーン』の言語であるアラビア語は、ムスリムのウンマ(共同体)にとっての公用語として開発される必要があり、そのためにはあらゆる努力が払われねばならない。

<引用ここまで>




・キブラ(礼拝の方向)について


何故祈祷(礼拝)の方向を変更したのかは割愛

他にもイエス様についての節(Q3:45・59、Q4:157-158等々)、サラ様とハガル様の関係性等、ヤコブ(イスラエル)様(28:18)、最初の愛妻ハーディジャ様・最愛の妻アーイシャ様についても色々打ちたいのですが割愛。



<引用ここから>

伝説によれば、アブラハム様のハージャル(ハガル)が、その幼児イスマイルのために、両丘の間を、水を求め往復して祈ったところ、ザムザム泉が湧き出て、アルラーからのお答があった。この泉がメッカの始まりといわれている。


(聖クラーン 註釈より)

<引用ここまで>



<引用ここから>

牝牛

119 125また我ら(ここでまた一人称にもどる。アッラーの自称)が聖殿(メッカの「カアバ」のこと。回教では、これはアブラハムおよびイスマイルの建立ということになっている)を万人の還り来る場所と定め、安全地域(罪人でもここに遁げこめば害を与えられない)に定めた時のこと。「汝ら、イブラーヒームの立処(カアバ内にある聖石、そこにアブラハムが立った所という。「アブラハムの足跡」が残っている)を祈祷の場所とせよ」と(我らは命じた)。それから我らはイブラーヒームおよびイスマイールと契約を結び、「汝ら両人、このわしの聖殿を清掃して、ここにおめぐり(メッカ聖殿の参詣者は、そのまわりをめぐる。異教時代からの古い習俗である)に来る人たちや、お籠りの人たちや、また跪きひれ伏してお祈りしに来る人たちのためにつかえるのじゃ」と(言い渡した)。

<引用ここまで>


関連節等 Q2:142、「知識の書」等




・最愛の妻アーイシャ様の伝承等


Q66:16のような人間的(人の云ふところの神聖化<偶像化>してはならないと打っています。そのことはムハマンド様が戒めておられます。拝)なところもございます。
亡くなられる時は「最愛の妻アーイシャ様の胸に抱かれて」といふ伝承もございます。


婚姻の書

九(二)アーイシャによると、神の使徒は言った。「夢でわたしは二度お前を示されたが、或るとき一人の人が絹の布にお前を包んで担い『これはあなたの妻だ。覆いを取ってごらんなさい』と言った。布を取ってみると、それはお前だった。そこでわたしは『もしこれが神からであるならば、それは果たされるであろう』と言った」と。


一〇五(一)イブン・アッバースによると、ウマルが娘ハフサのところへ行き、「神の使徒に特に愛でられ、美しいアーイシャのことで心を痛めてはならぬ」と言い、後にそれを神の使徒に話したとき、彼はほほ笑んだ、という。


一〇八(一)アーイシャは言った。神の使徒が私に「お前がわたしに満足しているときと、わたしに対して怒っているときがわかる」と言ったので、「どうしてそれがおわかりですか」と尋ねると、彼は「満足しているとき、お前は「いいえ、ムハンマドの主にかけて』と言うが、怒っているときは『いいえ、イブラーヒームの主にかけて』と言うからだ」と答えました。そこで私は「その通りです。神の使徒よ」と言いました、と。




・現在ある旧約の創世記内容一部抜粋


イシマエル

16:1 アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。

16:2 サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。

16:3 アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。

16:4 彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。

16:5 そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。

16:6 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。

16:7 主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、

16:8 そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。

16:9 主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。

16:10 主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。

16:11 主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。

16:12 彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」。


(中略)


16:15 ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づけた。

16:16 ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった。



ベテルの神

28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

28:18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、

28:19 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。

28:20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、

28:21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。

28:22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。



創世記でいふところの当時の価値観等

30:3 ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。

30:4 ラケルはつかえめビルハを彼に与えて、妻とさせたので、ヤコブは彼女の所にはいった。

30:5 ビルハは、みごもってヤコブに子を産んだ。

30:6 そこでラケルは、「神はわたしの訴えに答え、またわたしの声を聞いて、わたしに子を賜わった」と言って、名をダンと名づけた。

30:7 ラケルのつかえめビルハはまた、みごもって第二の子をヤコブに産んだ。

30:8 そこでラケルは、「わたしは激しい争いで、姉と争って勝った」と言って、名をナフタリと名づけた。

30:9 さてレアは自分が子を産むことのやんだのを見たとき、つかえめジルパを取り、妻としてヤコブに与えた。

30:10 レアのつかえめジルパはヤコブに子を産んだ。

30:11 そこでレアは、「幸運がきた」と言って、名をガドと名づけた。

30:12 レアのつかえめジルパは第二の子をヤコブに産んだ。

30:13 そこでレアは、「わたしは、しあわせです。娘たちはわたしをしあわせな者と言うでしょう」と言って、名をアセルと名づけた。



ヤコブの子

35:22 イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。さてヤコブの子らは十二人であった。

35:23 すなわちレアの子らはヤコブの長子ルベンとシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。

35:24 ラケルの子らはヨセフとベニヤミン。

35:25 ラケルのつかえめビルハの子らはダンとナフタリ。

35:26 レアのつかえめジルパの子らはガドとアセル。これらはヤコブの子らであって、パダンアラムで彼に生れた者である。



われわれの兄弟、われわれの肉身

25:23 主は彼女に言われた、「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」。

25:24 彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。

25:25 さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであったそれで名をエサウと名づけた。

25:26 その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。


(中略)


28:9 そこでエサウはイシマエルの所に行き、すでにある妻たちのほかにアブラハムの子イシマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻にめとった。


(中略)


36:1 エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。

36:2 エサウはカナンの娘たちのうちから妻をめとった。すなわちヘテびとエロンの娘アダと、ヒビびとヂベオンの子アナの娘アホリバマとである。

36:3 また、イシマエルの娘ネバヨテの妹バスマテをめとった。


(中略)


37:27 さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。





茲は資料参照等の頁でございます(簡単にではございますが註釈等しております)。
様々な資料より抜粋・引用させていただきました。


尚、聖コーラン(クアラーン)は訳が幾つか書籍となっておりますが、ウェブ上で読みたい方は(『日本ムスリム情報事務局のホームページ』)から御覧になれます。



謝意:

井筒俊彦様

牧野信也様(井筒様の御弟子)

様々な方の資料等


参考にさせていただきました。拝