大まかに仏教について


・簡単にですが仏教関係語句

はじめに

仏教の基本的用語をまとめた頁でございます。


一般によく知られてゐる般若心経も含め恐縮ながら御理解なされているおられるならば素晴らしいと存じます。拝

ただ本当にその意味も含め知っているのでしょうか

神・仏典とは学問ではなく、心性(霊肉)の観想、思惟<実践・体験・実感>とに、その実践から得た実感(それに基づくマコトの知識)の書でございます。

(妄想・観念から書かれたものではない)


下記のように釈尊が四諦を説かれているといふことは、

それ以上の“情報の整理”を行っていた、といふコトなのです(だから凄いのです)

現在でいふところの顕在意識に、不必要な情報が起こらない(浮かばない)コト体現されている状態。

といふことは無意識化レベルでの情報の整理統合が行われている状態以上なのです。

※ もちろん、思考や想像は“テン(マコト)をおさめた状態ならば なんでも自由”でございます。つまり、“余裕がある状態”といいましょう。ヒトはロボットではないのです。釈尊をまつる為にお伝えをしています(注意: 口だけで御五柱、御十柱をおさめておられないモノへ ここもあなた方にはまったく関係のない情報です)。


このようなコトからも“身、口、意の一致の実践”の必要性(意味)があるコトが分かるでしょう。拝


例えば、食についても、生き物を殺して喰らうといふ霊的段階のメグリ(悪業)も無論、御存知ゆえ(つまり意識下の情報を既に整理されている状態)、肉(四足、人間)を喰らわない行為・行動につながる。

己の中の肉食(肉が喰らいたい)といふ情報(間違った行為・行動を惹き起こす情報の元まで整理する作業が完了(完成)しているといふコトこの肉を食べたいといふ情報はどこから発するのでしょうか?そのレベルまでといふ事なのです)を正し無意識下以下まで順整理(ひふみ神示でいふところの掃除・洗濯)をなさっている。


ゆえに口・心・行の一致を満て、行為・行動として(顕れる)肉が食べなくても済む(澄む・清む)、心の平安(情報の整理)を得ておられるのでございます。(念の為に…世の段階・環境に応じて無理なくといふことでございます)


ただこれは初歩の初歩の段階(例)なのでございます
このような段階は釈尊は当たり前に修めておられているのです。ですから四諦を説かれた。

ですがこのような初歩レベル今の人たちには理解<実践>しておられますか?このような自覚の点からも下記を御覧下されば幸いと存じます

因みに“禁欲”とはまったく次元が異なる状態(体現・印)でございます。



まず御覧になる前に必要な知識

仏教とは“二千五百年前に釈尊の説かれた法”と云われています。


当時のインドの宗教背景(対立も含め)バラモン・ヒンドゥー教(カースト制等)があり、編纂に関わる人たちの思想・価値観(逆に抵抗する思想)。

和訳に至るまでの変遷の中でインド、中国等を経ている事。

(勿論、各言語訳する際に語彙のニュアンス等が異なり、各地域時代背景も異なる)

釈尊のレベル(段階)に達した者がそれぞれ編纂を行ったのではない。

そして多いに加上されている。

(さらに大乗教等・過去仏・過去生・輪廻転生等の説話まである)

といふことは知っておられると存じますが“佛(仏)説”と呼ばれている書物を読む前に考慮に入れておく必須の知識(予備知識)と存じます。


ですが恐縮ながら、それよりなりよりおさえておかねばならぬことは、“仏教も学問ではなく実践のミチ(所作が一致したマコト)”だといふことでございます。拝

学・理窟でするならば二義的(本質から外れ)な妄想・観念(思い込み)となり実なく仏魔(詳細は下記『学・理窟でするならば(仏魔)』を御覧あれ)ともなるのでございます(ならば我々が迷妄となり苦しみ事になる、大変な事でございます)。



それでは初歩的な用語で大変恐縮でございますが、ご存じない方は下記を御覧ください。

(様々な資料からなるべく一般的に現在捉えられている概念・解釈等を主に各三点づつ抜粋させていただいていおります)

八正道(はしょうどう)・四聖諦(ししょうたい)は所謂、自調自度的な意味合いだけではないのでございます。

何ゆえに「八正道・四聖諦」があるのでしょうか

個人(霊肉)だけではなく社会・国・世の基本(霊肉うれしうれし調和・繁栄)として云える大事なコト(日々の作業)なのでございます。拝




・「八正道・四聖諦とは?」


八正道(はっしょうどう)、四聖諦(ししょうたい)”は釈尊(世尊)が最初の説法(初転法輪:しょてんほうりん)で教示されたと云われております。



・八正道

正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定

八つで一つの実践のミチ。



・四聖諦(最勝法説)

苦・集・滅・道の四つの聖諦。

四つの工程の繋がりを経て修める“実践のミチ”。


苦諦(苦聖諦)

1)迷のこの世はすべてが苦である

2)苦の世界であることを悟り

3)この人間世界は四苦八苦をはじめとして、苦に満ち満ちているという真理



集諦(苦集聖諦)

1)苦の因は求めて飽くなき愛執である

2)この世は無常を原因とする

3)この苦しみがどうして起こるかというと、それはつきつめて考えてみれば人間の心にわきあがってくる煩悩であり、この煩悩は人間に生まれながらにそなわっている激しい欲望である。これが苦しみの原因であるという真理



滅諦(苦滅聖諦)

1)その愛執の完全なる絶滅が苦の滅した究極の理想境である

2)正しい修行(道諦)によって苦を滅する

3)この欲望や煩悩をすべて滅ぼしつくせば、苦しみを滅することができるという真理



道諦(苦滅道聖諦)

1)このような苦滅の境に趣くためには八聖道の正しい修行道によらなければならない

2)苦を滅するミチの実践

3)ではどうすればこの苦しみを滅することができるかというと、八正道という八つの正しい道を修めることである。この八つは欲望や煩悩を滅する正しい道であるという真理




*大乗仏教になりますと四諦をさらに展開し、「行苦諦・壊苦諦・苦苦諦・流轉諦・雜染諦・流息諦・清浄諦・正方便諦」として八諦とよばれる

*この四諦(したい)におきましても、まず照らし合わす(観る)という“心の作業(順序)”をしなければ、苦諦とはならないのでございます

(そして順があり何が苦なのか判別する基準が必要。そこから苦(悪因)を知り、苦の集<悪縁:因が縁を作っている>である繋がりを知る、それら苦集<悪因縁>を滅するコト<道を実践する道諦。情報を整理整頓・離れる>を知り、道を治める<実践・悟る。上記では八正道を知る為の経緯でもございますが>。ただこれは所作を結ぶ(一致)させるミチ<実践>であり“理窟・学”ではございません



『道理に照らし合わせて己を灯明としなさい』といふ事でございます。




三法印

諸行無常諸法無我・涅槃寂静

『佛教の根本思想である』(資料より抜粋)

というのが定説でございます。


*「一切皆苦」を入れた四法印といふものがありますが除きます



諸行無常

1)『諸行は因縁に依存して成り立つているもの(有為法)は永久不変ではなく常に変化し流動する(即ち無常である)から諸行無常という。』(資料より抜粋)


2)『万物は流転するものであり、永久に変わらないというものは世の中に一つも無い。

無常:生あるものは必ず滅び、何一つとして不変・常住のものは無いということ

流転:(一)迷いの生死を続け、六道の間を生まれ変わること。輪廻 (二)限りなく移り変わること』(辞書より抜粋)



註釈等:

ゆえに苦として気付き「涅槃寂静」へといふのが現在の解釈でございます。


同じような仏教関係の書籍がたくさんございますので、

大変恐縮ながら「茲はマコトを伝へる日月神示サイトでございます」ゆえに同じようであり同じようではない、ものを置いておきます。
少しでも何かの参考になれば幸いでございます。拝

全ては一定ではなく常に動いております(+−、回転)

そのサイクルは“生成、維持、崩壊”(流転・情報の変化)

(唯物的に生物で云えば生死を繰り返す、食物連鎖・動植鉱物の循環も含め構成する状態が変化している)

この円(縁・因縁)によって全ては活(生)かされ動きお互いが密接に関連(関係)しあっている


そして個にしても“情報とは常に変化しております”。

ゆえに霊肉ともに日々、整理(神示的表現では「掃除・洗濯」)しないとならない穢れツミ積もる世だといふ事であり、御恩を知りただただ感謝させていただくといふコトも、ココ(九十九)からも恐縮ながら分からせていただけると存じます。拝


さらに初歩中の初歩でございますが、恥ずかしながらこれも失礼します。拝
物質的側面だけではなく、心においてもまた同じく条件(少し細かく打たせていただきますと性差、形質、肉体年齢、環境要因等)によっても変化しております。

(初歩で大変恐縮でございますが囚われる対象につきましても霊肉の存在なのですから、それにより四苦八苦が生じる、無論その逆もあるのです。それもこのような事から極大極小と知ることが大切だと教えていただけるのでございます。そこから“また繋がりを観る事にツナガル”のでございます。本能に起因する自己中心的な我慾が、順を踏む事により利他的な調和・繁栄するミチ足る慾にも昇華する。ならばさらに連なり、さらに霊肉調和・繁栄となるのでございます。感謝)




諸法無我

1)『全て(宇宙の一切の現象)の法には我がない』


2)『すべてのものは因縁によって生じたもので実体がない(資料辞典より)』


註釈等

「ゆえに何も囚われるものはない」という解釈が“一般的”でございます。

上記も漢語ですが、元のインド言語でもさまざまな解釈ができます。

よく云われている事でございますが、諸法無我”から、すべては繋がりをもって連鎖しており“すべては一体”であるとも観れます。


下記も初歩でございますが、意味がございまして恐縮ながら置いておきます。拝

調和・繁栄する法により、我々は対応する環境においてうれしうれしただただ日々与えられております。
現在は物質的(形而下)側面からも、地球が丸いという事を知っており(地球が自転・公転等し大気・水・気候も含め我々がただただ与えられ生かされている)、地球を真中とした月の公転、太陽を立体的中心とした太陽系、そして銀河系の渦(ウズ)など、それぞれを中心とした絶妙明澄な流れ(動き)を知っている段階でございます(その絶妙な奇跡的バランスの関係性の中で、動植鉱物すべて生かされている)。

さらにミクロでは人体、生物、原子以下の世界まで知っているのです(身体においても意識しなくても動いている。水、空気、食べ物も実に美味しい。感謝)。

また人、生き物は価値観<歓喜・本能含め>を中心として動いております(現在までその霊肉の順が御恩を知らず感謝なくサカサマでございますが)。




涅槃寂静

通常云われている概念(資料等)では

1)『煩悩の火が消えた状態、辺見・囚われから解放された状態

(表現では仏と成る<成仏>)

2)『肉体から離れて(入滅)完成され、輪廻転生からも解放される状態』

ただ釈尊・仏<過去仏含>のみが境地・状態を知りうるのでございます



註釈:

「諸行無常、諸法無我」から、全ては因縁によって存在しているようにみえても変化するものであり実体がない、といふ解釈はよく云われております(理由がございまして、念の為に打たせていただきますが、言葉の意味も時代により変わります。時代と共に権威により定説となり学問として固定化される<歴史の長さが真理と比例等しているのではないのです。逆に無明の世でございますから損なわれる>。このような状況下におきまして、釈尊<2500年前>が書いたのではない原文における一つ一つの当時の単語の本当の意味・真意が分かるといふならば素晴らしいと存じます。学の上で羅列・明文でき体現し納得さすことができるならば皆が仏でございましょう。 逆に真意から遠ざかり迷妄に落込ませるかもしれないゆえに、“惑わす事に繋がります”『知らない事は知らない』で良いのだと存じます。拝

ゆえに囚われるものがなにもない事を知り(悟り)“苦の原因(因縁、因果)”を完全に寂滅させた状態(肉体から離れた時に真に完成されるとも解釈されております)


ですがここまでは“知識(学・理窟)”でございます。上記解釈を行っている方で「涅槃寂静」を実践・実感・体得しているのではないのですから知らないのでございます(打ちたい事は山ほどございますが割愛させていただきます)。拝


豆知識:『涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)(10-26の場合等諸説あり) y(ヨクト) 10-24 <ウィキペディアより抜粋>

(豆知識:10月24日といふのは国連等にも関係している日でございます)




・一切皆苦


1)一切悉(ことごと)くは苦しみである(*ただしこの用語も“漢語に直しての解釈”であり、様々なインドの原文等があり、そして様々な人たちが解釈し加筆もしてもいる。恐縮ながら二五〇〇年前の釈尊の真意を知る人はおられるならば末法ではありますまい。拝)

そこから、人とは苦しみから当然脱したいと望む(つまり改善し調和・繁栄・歓喜を望む)

ゆえに繋がりを知る心の働きが生じる動きとなる。



亦よく言われる事で四苦八苦

存在には「生老病死」が起こり、生きること、その繋がりから様々な苦しみを生じる

生きるから老いが生じ、病が生じ死が生じる

対象に囚われる事でさらに苦しみが生じる

苦しいからその苦の原因を観る事(自、他、自他一体、大我)に繋がる。

個人だけではなく、我々の日常生活・国・世界にも物事を改善する方法(手段)として使えるのです。

上記にも打たせていただきましたが「苦しいからこそ、その苦の原因(因縁)を調べ改善・解決(根絶)すればよい」という繋がり(発想・転機)となるのです(“根本無知の我々の段階としまして”そのように生産的・建設的に何卒御使いください、ならば霊肉益々弥栄となるでしょう。何事も使い方次第といふ事なのでございます。恥ずかしながら失礼致しました。拝)。



上記「生老病死」に四苦を加え下記「四苦八苦」


愛別離苦(あいべつりく)

愛する人と分かれわかれになる苦しみ


怨憎会苦(おんぞうえく)

憎いいやな人に会う苦しみ(さらに怨みなど十悪を起こす働きともなりうる)


求不得苦(ぐふとくく)

求めても得られない苦しみ


五蘊盛苦(ごうんじょうく)

1)五蘊(色・受・想・行・識)が盛んになる苦しみ(註釈:盛んになるといふことは盛んにならなくなる苦しみ<生老病死>といふ事も含めての苦しみ)

2)人としての肉体・精神があるために生まれる苦しみ(ウェブから抜粋)



ここまでが「一切皆苦」の一般的な概念(意味付け)と存じます。拝

と申しましても、それが「我々にどのように役に立つのか」なのでございます。

空論、霊肉ネガティブな行為・行動に繋がるのでしたら意味は無く、まったく必要がないのです(また釈尊は苦行と楽行のどちらでもない中道を説いたと云われているのです)。


「有意義にどのように教えを使うのか(使えるのか)」なのでございます。



高尚な三法印等は、釈尊が輪廻転生を繰り返し(一生を遥かに超えて)修行(実践)なされ、御自身が望む段階までようやく達したと云われているほどの行(ぎょう)だと“云われている”のです。
人としての基礎・基本すらない我々が“その真意を汲み取れるならば”素晴らしい事だと存じます。拝




・学・理窟でするならば(仏魔)

良い機会でございますので、このような内容も茲に置いておきます(日本では仏教系の仏魔、他ファイルでは仏間<内実がない>と表現もさせていただております。拝>。
少しでも真意に応えられるよう参考になれば幸いと存じます。


楽も壊れる時にまた苦を生じる(三苦等)。

一切は苦しみであり囚われればより苦しみを生じる(四苦八苦)。

生まれた時に知識がないように、知識すら無くなる。

ゆえに消滅(註釈:だがある意味、カタチ・情報が変化するだけである)するものに囚われるならば苦しみが生じる。

すべては生成・維持・崩壊(流転等)なのであるから、肉体(感覚器官含め・六根六処)についても囚われる事により苦しみを生じる


対象が変化するから苦なのである。


諸行無常であり諸法無我であるから我と囚われる対象から離れる事(霊肉の深い段階での情報の整理)により寂滅(煩悩の火が消えた状態)に至らなくては平安とはならない。

つまり全て悉くを観想し苦の因縁を否定するプロセス(内的経験)により、情報を思惟整理統合していくのである。




ただこれは実践なき“机上の空論、学・理窟”でございます。

その流れは破壊活動という事にもなりかねません。

(我の喜びの段階が低いのにかかわらず高い段階のコトは理解させていただけない。無理に学・理窟で理解しようとするから無理が生じ内的バランスが崩され、それを“魔”に利用されるのでございます)


破壊活動(自作自演も含め)について少し打たせていただきましょう。

ここまで打たせていただければお分かりと存じますが、肉(物質)をいくら破壊したところで、霊と不二(一体)なのですからメグリ(悪業)を積むだけで、まったく逆の行い(十悪)をすることになるのでございます。

(学・理窟でいけば、その妄想狂信的答えは内実なくカタチだけであり、調和・繁栄を乱し破滅的になるだけでございましょう。世界的に云える事だと存じます)

妄想(魔言)にトリツカレ手を下さなくてもいずれ地球は“法のプロセス”に則り自然に崩壊(変化)するのです(“黙示録等”は人が意図して行うものではない。「人が行うならば人為的・自演自作のただの犯罪、凶行、キチガイの集団でございましょう」とも打たせていただいております。それを利用して悪人がさらに支配的な世にしたいだけなのでございます。茶化すスコタンも居る始末)。

つまり“ここからも”物をいくら破壊しても思春期の学生がはけ口を求め暴れまくるのと同義であり、まるで意味がなく、ただの狂人(人の作った神を信奉する盲信徒)であり、その心根が神心(霊肉の調和・繁栄)から外れ不毛である行為・行動<十悪>だといふコトが得心されるでしょう。


この初歩的なコトにカルト信者等(カネを中心にする拝金教も、また同じく順を乱す行為・行動なのです。カネの為に霊肉調和・繁栄を崩し戦争・争いを起こしているでしょう)は過去より気づかないのです。

(色々なニュアンスで表現されますが魂、霊肉のうれしうれしの向上が目的でございましょうに)


そのような事をすれば霊的にも苦しみ恨みの念を生じさせより混迷の状態にさらに引き込む魔(苦しみ)の流れともなりうるのです。

ですからそのようなカルト(ガイコク)に関わっておられる人がおられるならば、霊肉ともにメグリをツミに積む、我々を苦しめることになります(と打ってもカネ・慾で縛られているから他人はどうでもよく理解できない)。

また上記は直接的な悪行ですが、間接的な悪行もあるのです(これが問題、拝金教、モラルすら破壊する流れを作り出す)。


そのようなために四諦等もあると存じます(御役立てください)。
正しく判別(認識)する為にも「かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる」の働きを日々正しく発揮(実践)して禊祓いを実践してください。拝


御読みくださりありがとうございました。


『 大宇宙の弥栄生成化育は寸時も休むことなく進められてゐるのざぞ、弥栄が神の御意志ざぞ、神の働きざぞ、弥栄は実践ざぞ。人としては其の刹那々々に弥栄を思ひ、弥栄を実践して行かねばならんのざぞ。宇宙の総てはとなってゐるのざぞ、どんな大きな世界でも、どんな小さい世界でも、悉く中心に統一せられてゐるのざぞ。マツリせる者を善と云ひ、それに反する者を悪と云ふのざぞ、人々のことごとマツリ合はすはもとより、神、幽、現、の大和実践して行かねばならんのざぞ。(ア火ハの巻 第三帖)






四苦八苦が仏魔の仕組となっている(追記)


実践しておらず内観すら知らぬスコタンは、『「四苦八苦」で気づき悟るならば、人々に苦しみを与えればよい。』

などと、不毛(ケガレ)にも都合よく解釈するならばどのような災・禍・惨事となるのか(これが心無い人、カルトに利用されてきたから打っておきます。拝)。

この四苦八苦をワザワザ人が作り出し、『勧誘する手段として利用する悪魔』までいた始末(つまりカネのために利用する手段と化している)。


では四苦八苦を人々にワザワザ与えて本当に悟るというのだろうか?


生老病死

愛別離苦(あいべつりく)

怨憎会苦(おんぞうえく)

求不得苦(ぐふとくく)

五蘊盛苦(ごうんじょうく)


何千年と歴史を観ても、一人としてそれにより悟った者はいない。

むしろ、人心は乱され苦しみ狂い、中には自殺した人たちまでいる始末(この四苦八苦をワザワザ与えられるならば生き地獄でありましょう)。


『神・仏なぞあるもんか!!』、せつな的、唯物論的に人々

は考え、また行動するようになります。

当たり前である。

『唯物論的本能に貪欲に邁進し、戦争を起こし起こさせ好き勝手にして、カネを儲ければ良いではないか。』

『気に食わない奴等は殺せばいい。』

『また騙して利用すればいい。』


このように心すさみ世が狂い魔が蔓延る事となる。


また、途上国の今までの現状を御覧なさい(主に有色人種の国。なぜ有色人種の差別があるのか?『優劣差別を洗脳・コントロールする書があるからである(邪教の書・『言』によって人々は動くのです。幼い頃から洗脳されたらどのような人格となるでしょうか?)』。透明色はいないであろうに、またハラのイロは何色ですかな?)。


この何千年と厭きずに争いを起こしてきた惨憺(さんたん)たる有り様から学んでいただきたい(人を苦しめ殺しカネ等を得るそれにより支配する心無く良くない者達に利用されただけであろう。どんだけの甘ちゃんか、人を殺し苦しめそれにより快楽を得る方<そのように感じられる心根が魔・獣>に、神を裏切り、人、自分すら裏切りただ逃げているのではないか)。


つまり人々にワザワザ四苦八苦を与えても世は乱れに乱れ、魔・獣が跋扈(ばっこ)する魔界と化すだけである。



人々は喜び歓喜の中から神・仏を知り、感謝し、そして霊肉ともにさらに発展発達をするのである(この歓喜立体がある意味の曼荼羅なのである)。

(まずは神・仏と云ふならばその前提たる十善を国・人に写し実践してからであろうに。我々を苦しめ殺すものは神ではない。ましてそのようなヨコシマな教えで人に十悪を起こし起こさせるならば、神・仏もありまいて)


現在までは、元神との約束(霊肉十善)を守らない(祀らない)から、初段においても神・仏を知れるはずがなかろうに(己らでミチを閉ざしているのである)。

逆を行い神・仏もないようにワザワザ人々が行ってきた始末(閉め)。

そのツミ積もりケガレに巣食うのは生贄、血を求める魔・獣・邪霊の類である。

であるから、このような世となっていたのである。



既にうれしうれしマコトのイワトは開いている。光拝

マコトの神を知りたいならば国・人とともにマコトに神をうれしうれし祀ればよい(各々に神之御柱を建てよ)。



何千年のこのような不毛な結果があり、いまだに学・理窟・仏魔に拘り、四苦八苦に囚われるならば己らだけで他を巻き込まず勝手に死ぬまでするがよい(まず己に四苦八苦を与えなされ。食べ物を食べなかったり肉体を苦しめたり苦行をしても悟れないコトも釈尊は体現されたと存じるが?そして現在の人々の仏教とは恐縮ながら実践なき机上の空論・妄想でございますゆえ幾らやっても実なく悟れないでございましょうに。しかも『日本は大乗仏教』でございましょう?世はどうなっていますか?)。



もう一度打っておきますが、四苦八苦を人々(衆生)にワザワザ与えても悟る事はできないのでございます。

今後もこのような狂った(キ違い)思想(仏魔)はしてはならない、また己の悪事の口実に利用してはなりません(当たり前でございます)。



まずは何事も一歩一歩足場を整えるコトが肝心要。

何事には順序があり段階があり、ハラもまた同じく初段の掃除洗濯(潔斎)が第一(霊肉十善を元に五つの働きの日々の実践)。


かむながらたまちはへませ やさかましませ。光拝