大本について


マツリの巻 第十三帖(四一七)

九二の火水。九二の日月の大神、黒住殿、天理殿、金光殿、大本殿、まつり呉れよ、併せて神山にまつり結構致しくれよ。八月十八日、一二


――― ここから ――――


上記は戦前からある宗教団体であります。

黒住教、天理教、金光教、大本。

(神道十三派等)


これらの団体は現代の宗教の型であります。

また派生し新興宗教化したものも多数あり、社会(心)に与えた影響は甚大。


ひふみ神示はこれら宗教と関わりが深いのです。

(ですがひふみは既存の宗教ではなく和するマコトの太道)

関係する神々からの啓示でありますから、関わりが深いのも当然といえば当然。

岡本天明氏は大本に関わっておられました。

(その関係、つながりはウェブ上でも検索することができます)


ひふみ神示はこのような段階・土台があって、成立しております。


これよりご紹介いたしますのは、神示に関係が深い大本(おおもと)の中心人物たちの本。


まずは『いり豆の花』、ひふみ神示と類似した内容(型)について。

後、各内容を少しですが抜粋して掲載いたしますので、

時代背景、現在までの経緯、またつながりをなんとなく感じていただければ幸い至極でございます。


・各項目

いり豆の花

三鏡(サンカガミ

霊の楚

神慮

カルの歌

天理の教え

――― ここから『いり豆の花』 ――――


『いり豆の花』より


第八章 天でも自由になさる神

(略)

「神さまが呼ばれています立替え立直しは改心が第一ですが、それには環境の改造ということ、政治とか経済の立直しということがともなわなければなりません。

次々とそうなってゆくっことを教えられています」


明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替の正念場であるぞよ。それまでに神の経綸が急げるから、なんと申しても今度は止てはくださるなよ。

明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ。」

(第九章 出修時代 P603



ななおう(七王)もやおう(八王)もおう(王)があればせかいにはくぜつ(口舌)がたえんから、

ひとつのおうでおさめるともおしてあるが、

こんどのたたかいはおおたたかいであるぞよ、

しんりき(神力)とがくりき(学力)のちからくらべであるからほねがおれるぞよ」



大の字逆様

「世の立替について、何も世界の物事が変わるから、天から何も不思議がして見せてあるぞよ。大の字逆さま、○に十を書いて八分まで黒くして見せてあろうがな。

世が変わる印ぞよ。

この世はいったん泥海になりてしまう所であれども、

ここまで開けたこの世界をまた元の一からし直さねばならんようなことがありては、神も長らく苦労いたした効能が水の泡になるし、人民がさっぱりなくなってしまうから、それではならんから、いったんは世の切り替えといたして、人民を改心さして世界を助けねばならぬぞよ。

神がありての人民、人民ありての神であるから、この有難い(ありがたい)ことが判りてきたら日本の国は良くなるし、日本が良くなれば世界も良くなるのであるぞよ。見ておざれよ、金神の世になりて結構と申すようにいたすぞよ」(明治32・旧4



「三千年と五十一年、三四月、八九月、正月三日、三月三日、五月五日などの数字に囚われてゐた、いはゆる○○派、○○派の説明に誤られてはならぬ。五十一の五は、厳の意味であり、十は火水(ひみづ)、また神の意、一年は始めの年の意味である。要するに三千年(無限の年数)の間の、大神の御艱苦が出現して、神徳の発揮さるる最初の年が、明治二十五年からといふ意義である。九月八日の九はツクシであり、月はミロクであり、八は開く、日は輝くの意味で、梅で開いて松で治める意義、八日とは梅開く意義である。

また正月三日の正は、一と止めと合した意味であり、月は月光、三は瑞または栄え、日は輝くことで、神徳の完全に発揮されることを正月三日といふのである。

ゆゑに神諭の解釈は容易にできない。

また筆先と神諭の区別も弁えへて読んでもらはねばなりませぬ。この霊界物語も、人智をもって判断することはできませぬ。

たとへ編集人、筆録者の解説といへども、肯定してはなりませぬ。

ただ単に文句のまま、素直に読むのが、第一安全でありますから、一寸書き加へておきます。

大正十一年瑞月祥日 於瑞祥閣 王仁識」

(第十章 晩年の直 P700



・関連ワード検索でさらに詳しく

御嶽・御嶽教・御嶽山

久さんの日乃出神諭

天照彦命、稚姫姫、金龍姫


豆知識:

王仁三郎、澄さんの四女は一二三(ひふみ)


――― ここから『三鏡』 ――――


三鏡(サンカガミ)

神様と花

神様がわからないという人に、

一本の花を見せてやれ。

これでも神様がわからないのですかと…。

誰がこの美しく、妙なる色香をもった花を造るのであるか、同じ土地に播いても種が違えば、

千紫万紅さまざまに咲き出でて、

得もいわれぬ美しさを競うではないか。

いったい誰がそうするのか。

花を作る人は、ただ世話をするにすぎないのではないか。

これでも神様がわからないというなら、

よほど頭の悪い人である。

(昭和二年六月・水鏡)


――― ここから『霊の楚』 ――――


霊の楚

第三

高天原の天国に上るものは、

地上にある時その身内に愛と信との天国を開設しおかなければ、死後において身外の天国を摂受することは不可能である。

人間として、その身内に天国を有しなかったならば、身外にある天国は決してその人に流れくるものではない。

またこれを摂受することができぬものである。

要するに人は現実界にある間に、みずから心身内に天国を造りおく必要がある。

しかして天国みずから造りかつ開くのは、神を愛し神を信じ無限絶対と合一しておかねばならぬ。


人はどうしても、この無限絶対の一断片である以上は、

どこまでも無限絶対、無始無衆の真神を信愛せなくては、霊肉ともに安静を保つことはできぬものである。

真神たる天之御中主の大神その霊徳の完備具足たるを天照皇大御神と称え奉り、また撞の大御神と称え奉る。

しかして火の御祖神(霊)を高皇産霊大神と称え厳の御魂と申し奉り、水の御祖神(体)を神皇産霊大神と称え瑞の御魂と申し奉る。

霊系の主宰神は厳の御魂にまします国常立神、

体系の主宰神は瑞の御魂とまします豊国主尊と申し奉る。

以上の三神はその御活動によりて種々の名義あれども、

三位一体にして天之御中主の大神(大国常立尊)御一柱に帰着するのである。

ゆえに独一真神と称え奉り、

一神すなわち多神にして、

多神すなわち一神である。

これを短縮して主という、

また厳の御魂は霊界人の主である。

また瑞の御魂は現界人の心身内を守り治むる主である。

現界人にして心身内に天国を建てておかねば、

死後身外の天国を摂受することは到底不可能である。

死後天国の歓喜を摂受し、

かつ現実界の歓喜生活を送らんと思うものは、

瑞の御霊の守りを受けねばならぬ。

要するに生命の清水を汲みとり、

飢え渇ける心霊を潤しておかねばならぬのである。

瑞の御霊の手を通し、

口を通して示されたる言霊がすなわち生命の清水である。

霊界物語によって人は心身ともに歓喜にむせび、

永遠の生命を保ち、

死後の歓楽境を築きうるものである。

太陽また水火の息を呼吸して光温を万有に与う。

されど太陽神の呼吸する大気は、

太陰神の呼吸する大気ではない。

また人間の呼吸する大気は、

主および日月の呼吸する大気ではない。 


そして何人の眼にも同一に見えざるは、

主神の身に変異があるのではない

主を見るところに塵身に、

その徳の不同があって、

自身の情動によりてその標準を定むるからである。

天国には、

霊身の善徳の如何によって高下、大小、種々の団体が開かれておる。

主を愛し主を信じて徳全き(とくまった)ものには、

最高天国に上り最歓喜の境に遊び、主の御姿もまた至真至美至善に映ずるのである。

ここにおいてか、天国に種々の区別が現出し、主神の神格を見る眼に高下勝劣の区別ができるのである。

また天国外にある善悪不信の徒にいたっては、主神を見れば苦悶に堪えず、かつ悪相に見え、恐怖におく能わざるにいたるのである。

(中略)

霊界の消息、死後の生涯を述ぶるをもって、荒唐無稽として死後の生涯を否定する人々は、もはや懐疑者ではなく、むしろ無知識の甚だしきものである。

かくのごとき人々に対して霊界の真相を伝え、神智を開発せしむるということは到底絶望である。

(中略)

また卑賤無智にして世道人情をわきまえなかった悪人は、光明と愛と自由のない地獄に落ちて苦しむものである。

生前すでに不和欠陥、闇黒苦痛の地獄に陥った人間は、現界にある間に悔い改め、神を信じ、神を愛し、利己心を去り、神に対しての無智と頑迷を除き除き去らなければ、決して死後安全の生活はできない。

現世よりすでに己に暗黒なる地獄の団体に加入しているものは、現界においても常に不安無明の生活を続けて苦しんでいるものである。

一時も早く神の光明に頑迷なる心の眼を開き、天国の団体へ籍替えをなすことに努めなければならぬのである。


――― ここから『神慮』 ――――


神慮

世界の人は天界の

流れを受けて善となし

地獄によりて悪をなす

ゆえに大本神諭には

すべての事物は霊界の

みな精霊の為す業と

示させたまう所以なり

されども人はその行為を

残らず己れの身よりすと

信じるゆえにその為せる

悪は皆その自有となし

心中深く膠着せり

それゆえ人は自身より

悪と虚偽との因となる

神の関する由来なし

人の身魂に包有せる

悪と虚偽とはその人の

心の中の地獄なり


地獄というも悪というも

皆同一の事ぞかし

人は自ら包有せる

諸悪の原因なるゆえに

地獄に堕ちて苦しむも

自ら赴く次第なり

決して真の大神は

地獄に堕とし苦しめて

処罰し給うものならじ

如何となれば人間が

悪を欲せず愛せずば

主(ス)の大神は地獄より

脱離せしめて天界へ

導きたまい人をして

地獄に投げやり給うこと

決してなきを悟るべし

あヽかん惟神 惟神

御霊幸はえましませよ。

(霊界物語 第五六巻 第一章)


――― ここから『カルの歌』 ――――


カルの歌

 『カルの司はわれなるぞ

吾は幸いの大神の

深き恵みに抱かれて

今は嬉しい霊界の

中にも尊き真秀良場(まほらば)や

天国浄土の旅の空

神のまにまに進み行く

時しもあれや目の下に

たちまち聞こゆる鬨(とき)の声

何者なやんと振り返り

眼下をキッと見わたせば

うつし世に住む人々が

喜怒哀楽や愛悪慾

名利の鬼に捉われて

手ぶり足ぶりするさまは

二目と見られぬ惨状ぞ

互いに生血を搾り合い

あるいは互いに肉をそぎ

膏(あぶら)を搾りいがみ合う

地獄か修羅か畜生か

比喩えがたなき娑婆世界

これが人生の行路かと

思えば涙もおのずから

滝のごとくに流れくる

あヽ惟神惟神

御霊幸はいましまして

たとえ肉体朽ちはてて

霊体ばかりの吾なれど

これが見すてておかりゅうか

目下を通る人々よ

カルの言葉をよっく聞け

死生禍福を超越し

生なく死なき神さまの

御霊を受けし人々は

現界ばかりが永久の

住処にあらず業因の

結果によりて天国に

生まるるもあり幽界に

おちて焦熱大地獄

無限の永久を受くるあり

心一つの待ちようぞ

人は神の子神の宮

かかる尊しお諭しを

聞きたる人は省みよ

言心行の三大を

合一させて現世に

命のつづくその限り

神の御子たる職責を

尽くして魂の行末は

天津御神の永久に

住まわせ給う花園に

常世の春を送るべく

誠を励み現世の

青人草の魂に

神の教の真諦を

完全に委曲に宣り伝う

あヽ惟神惟神

御霊幸はいましまして

現世の人ことごとく

慾の悪魔にひしがれて

朝な夕なに地獄道

無限永苦の魁を

根本的に改革し

神の御子と生まれたる

誠の道をおしなべて

守る真人となさしめよ

あヽ惟神惟神

御霊幸はいましまして

レーブやカルの願事を

完全(うまら)に李曲(つばら)に聞こし召せ

尊き神の御前に

畏み畏み願ぎまつる』

(霊界物語 第四〇巻 第十四章)


――― ここから『天理の教え』 ――――


人をたすけて、わが身たすかる

とは、常に教祖の教えられるところであった。

身上・事情におたすけを頂き、この教えに帰依した者は、

その喜びをわが身・わが家ひとつに留めず、たすけられた喜びを人に頒ち、同じく苦しみ、悩む人を手引きしてひとしくたすけの浴させ、喜びをともにしあうことこそ、何よりの御恩報じであり、親神の世界だすけの思召に叶うことであって、それが同時に、真にわが身のたすかることにもなるのであると聞かされるのである。


――― ここまで ――――



参考資料:

三鏡(さんかがみ)

いり豆の花

霊の楚

出口王仁三郎の愛のかたち

スサノオと出口王仁三郎

天理教


――― ここから関係帖 ――――


地つ巻 第十二帖(一四九)

この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ、日蓮も親鸞も耶蘇も何もかもみな脱け殻ぞ、この道でたま入れて呉れよ、この道はぞ、〇の中に入れて呉れと申してあろうが。臣民も世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、入れて呉れよ、〇を掃除して居らぬとはいらんぞ、今度の戦は〇の掃除ぞと申してあらうがな、まつりとは調和(まつり)合はすことと申してあろうがな、この道は教でないと云ふてあらうが、教会やほかの集ひでないと申してあらうがな、人集めて呉れるなと申してあらうがな。世界の臣民みな信者と申してあらうが、この道は道なき道、時なき道ぞ、光ぞ。この道でみな生き返るのざぞ。天明阿房になりて呉れよ、我(が)すてて呉れよ、神かかるのに苦しいぞ。九月二十三日、一二



ソラの巻 第十四帖(四六九)

御(み)光の輝く御代となりにけり、嬉し嬉しの言答(一八十)明けたり。あなさやけ、三千年の夜は明けて、人、神、となる秋(とき)は来にけり。日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ、二二晴れるぞ、一八十開けるぞ。御神名書かすぞ、ひかり教会のりとは、ひかりの大神、弥栄ましませ弥栄ましませ、ひかりの大神守り給へ、幸へ給へと、申せよ。弥栄弥栄(やさかいやさか)。四月五日、ひつくのかみ。

――― ひふみ神示と類似した内容(型) ――――


キの巻 第十四帖(二七一)

三月三日から更に厳(きび)しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから更に用意して何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれよ、心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆(さか)さ許(ばか)りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ戦争(いくさ)つきはつ大道ぞ。一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくるぞ、その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組愈々世に出るぞ、三千年の仕組晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、桜花一二三(ひふみ)と咲くぞ。三月十七日、ひつぐの神。


地つ巻 第十五帖(一五二)

神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。てん詞様が世界みそなはすのざぞ。世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。九月の二十三日、ひつ九のか三。


――― ここまで ――――


御読みくださりありがとうございました。